● Winter White ●

 寒い夜だった。
 少年は、溢れる人々の行く先とは反対方向に走っていた。
 身体の小ささと身軽な動作のお陰で、人の隙間を縫う様にして動く事が出来る。いつもは嫌っているこの未熟な体型も、この時ばかりは天よりの授かり物だと思えた。
 尤も、少年は神を欠片さえも信じてなどいなかったが。
 ひょいひょいと人を避けて、少年は細い路地に入り込む。その姿は小さすぎて、誰の目にも止まらない。その路地に身を潜める様に蹲ると、表の通りで怒り狂った男の声が通り過ぎていった。
 ――――これで大丈夫。
 少年はずっと胸に抱えていた箱を、そっと膝の上に下ろした。白い紙箱はあちこちが凹んで、押し潰された様になっている。少年は箱を開けて中を見ると、眉を顰めた。
「……やっぱり。ぐしゃぐしゃだ」
 箱の中身は、ケーキだった。ホワイトクリームたっぷりの、苺が乗った丸いケーキ。形こそ崩れてしまっているが、それでも甘くて美味しそうだ。
「でも、ゼロになるよりはマシだ」
 食べられるだけまだ良い、と少年は開き直る。そうして箱を閉じると、路地の奥へと向かった。
「今日はどうしよう」
 誰に言うでもなく、呟く。
 そう、少年には帰る場所が無かった。いつもこういった路地の隅っこで、寒さに耐えながら夜を過ごす。それがもう当たり前になってしまって、迷いは何も無かった。このケーキの様に、食料は自力で調達する。それが悪い事だと分かっていたが、それでも自分が生き延びる為には仕方の無いこと。何も手に入らなければ、ただ我慢して飢えを凌ぐのみだ。
 どれだけこんな生活をしているのかも、最早覚えていない。毎日を生きる事に精一杯で、そんな事を考える余裕は無いからだ。それでいて、どうしてまだ生きているのか、不思議に思う事がある。
 別に、死を求めている訳ではない。ただ、人間の生命力の強さを実感するだけ。
 だからこうして、今日も生きる。
 少年は視線の先に人影を見つけ、足を止めた。此処で誰かに姿を見られるのは、避けたかった。だが、その影は路地の端に座ったまま、動く気配を見せない。少年はゆっくりと、近寄った。
 ――――それは、少女だった。少年と同じくらいか、若干幼いくらいの。
 ひらひらとした服を纏ってはいるが、擦り切れ、破れてボロボロだ。ふわふわの巻き毛もすっかり乱れて、少女は死んだ様に動かず、ただ座っている。
「……おい」
 少年は少女の肩に手をかけ、軽く揺すった。本当に死んでしまっているのではないかと、不安になったのだ。反応が返るまで、何度も、何度も呼び掛ける。
「おい、大丈夫か?」
 何度目かの呼び声に少女がゆっくりと顔を上げ、小さく首を傾げた。
「だぁれ?」
「俺は、リン。お前は?」
「ラーナ」
「ラーナか。どうしてこんな所に居るんだ?」
 ラーナは、首を振った。どうやら、言いたくないらしい。少年――――リンは質問を変えた。
「家は?」
「おうち、ない」
「じゃあ、俺と一緒だ」
「いっしょ?」
「そう。俺も帰る家なんか、ないから」
 答えると、ラーナは顔をぱあっと輝かせた。
「いっしょ! ラーナ、リンといっしょ!」
「あぁ、そうだな」
 リンははしゃぐラーナの頭を優しく撫でた。
 どうやら今日はここが宿になりそうだ。


「なぁ、ラーナ。今日が何の日か知ってるか?」
 ラーナの横に腰を下ろして、リンは訊いた。
「しらない」
 ラーナは、首を振った。
「今日は、『くりすます』って日なんだ」
「くりすます?」
「そう。幸せで、おめでたい日なんだってさ」
「しあわせ? リン、しあわせ?」
「そうだな……うん、幸せだ。ラーナに出会えた」
「リン、しあわせ。ラーナも、しあわせ」
「そっか、ありがとな」
 リンは小さく笑い、ラーナの頭をぽんぽんと優しく叩く。ラーナは嬉しそうに、にこにこと微笑んだ。
「くりすますってのは、教会に行ってお祈りをした後、ご馳走を食べるんだ」
「ごちそう?」
「そう。ここにご馳走はないけど、その代わりにケーキならある。ラーナ、一緒に食べよう」
「けーき!」
 ラーナは瞳を輝かせながら、リンが箱を開けるのを凝視していた。
「ちょっと不恰好だけど、我慢してくれよな」
 言って、リンはケーキの箱を地面の上に置く。
 中には数本の蝋燭が入っていた。火元さえあれば、と思ったが、生憎それらしいものは何処にもなく、それならばせめて気分だけでも、とそれらをケーキに挿していく。
「きれいね」
 ラーナが呟くように言う。蝋燭に火が灯された様はより一層華やかで美しい事を知っているリンは、それを見せてやれない事を悔しく思った。
 ふたりは同時に人差し指でクリームをすくい、口に運んだ。とろけるような甘さが、口のなかにじわりと広がる。あまりの美味しさに、ふたりは我を忘れてケーキに手を伸ばした。
「けーき、おいしかったね」
 指についたクリームを舐めながら、ラーナが言った。リンは頷く。そうして地面に残ったケーキの僅かな余りと、倒れて転がる蝋燭に視線を向けた。
 蝋燭の数は五本。暖を取るには些か少ないが、それでも暖かさを感じられれば。リンは不意に立ち上がった。ラーナが驚いた様子で彼を見上げる。
「リン、どうしたの?」
「何か、火を点けるものを探して来る」
「じゃあ、ラーナはおるすばんね?」
「あぁ、すぐに戻って来るから」
「いってらっしゃい」
 にこにこと微笑みながら手を振るラーナに小さく笑いかけて、リンは表道に向かって走っていった。その姿が見えなくなるまで、ラーナは手を振り続けていた。


 町は静まり返っていた。  皆が教会に集まり、神の話とやらを聞いているのだろう。そんな事をしても腹は膨れないし、神が助けてくれる訳でもないというのに。
 ひとり取り残された時どんなに神に祈ろうと、皆が帰って来た訳でもなく、何の助けもなかった。
 その時、神など居ないのだと悟った。
 それなのに何故、皆律儀に教会へと足を運ぶのか。それがリンには全く理解出来ない。
 けれどそのお陰で、今は火元を得やすくなった。
 リンは町唯一の雑貨店の窓から中を覗き込む。窓に隣接する棚の上には、火を生み出す機械が並べて売っている事を思い出したのだ。
 リンは道に落ちている大きめの石を拾い、迷わず窓に向かって投げた。
 窓は大きな音を立てて割れ、硝子の破片が飛び散る。
 リンは割れた窓に手を差し入れ、目的の物を掴んだ。飛び散った破片が手に刺さったが、そんな事を気にしている場合ではない。
 自分の手に機械がある事を確かめると、リンはラーナの待つ路地裏へと急いだ。


 ラーナは膝を抱える様にして、じっと動かずに座っていた。リンが戻って来た事に気付くと、すぐさま顔を彼に向け、にっこりと笑う。
「おかえりなさい」
 その言葉がどれだけ嬉しかったか、それはリン自身にも分からない。自分の帰りを待ってくれる人が、温かく迎え入れてくれる人が居る事に、素直に喜びを覚えた。
「……ただいま」
 答えて、リンはラーナの隣に再び腰を下ろす。そうして地面に横たわる蝋燭のうち、一本だけを余ったケーキの上に挿した。蝋燭に、火を点ける。小さな明かりが、辺りをぼんやりと照らし出す。そっと手を近付けると、冷え切った手が緩和されていくのが分かった。
「ラーナ、手を出して。暖かいよ」
 ラーナは言われるがままに手を差出した。炎の熱を手に感じて、嬉しそうに笑う。
「あったかい」
 呟いて、ラーナは蝋燭の光をじっと見つめる。
「……リン。ろうそく、きれいね」
「だろ? 良かった、ラーナに見せられて」
「ラーナはしあわせよ。いままででいちばん、しあわせなの」
「そっか。俺も、凄く幸せだ」
 リンは、空を見上げた。漆黒の広がる上空には星の姿も見えず、分厚い雲が何層にも重なっている。気温の低さから察するに、もしかしたら雪が降るかも知れない。
「雪が降ったら、ホワイトクリスマスになるな」
 その呟きを聞き取って、ラーナが首を傾げた。
「ほわいとくりすます?」
「雪が降るクリスマスをそう呼ぶんだ」
「ゆき、みたいな」
 ラーナが期待の眼差しで呟いた。
「もう少し待てば、降るかも」
「でもラーナ、ねむい」
「眠っていいよ。雪が降ったら、起こしてやるから」
「ほんとう?」
「あぁ、本当だ」
「ぜったいよ?」
 ラーナの言葉に頷いて、リンは彼女の肩にそっと手を回した。自分の方に引き寄せる様にして、身体を密着させる。その方が暖かいからだ。
「……おやすみ」
 優しく一言をかけてやると、ラーナは安心した様に瞳をゆっくりと閉じた。
 リンは闇色の空を仰ぐ。白く、冷たい奇跡の欠片が降ってくるのを、ただひたすらに待ちながら。
(……やばい)
 不意に眠気が襲って来て、リンは内心焦った。ここで自分が寝てしまっては、雪が降ってもラーナに教えられない。彼女を悲しませる事だけは、したくなかった。けれど無常にも、眠気は強い力でその思いすら無に帰そうとしている。
 それに強い精神力で抗いながら、リンは雪が降るのを待ち続けた。だがその努力も虚しく、目蓋は少しずつ下がり、光の無い漆黒の闇が視界を奪っていく。
 もう駄目だと思った時、暗転しかけていた視界に白いものが映った。
 思わず視界を広げ、リンは上空を凝視する。見間違いなどではなかった。空からひらりと舞い落ちて来る白き結晶。待ち侘びていた純白の欠片。
「――――ラーナ!」
 リンは急いでラーナの肩を揺すった。だが、彼女の眠りは深い様で、覚める様子は無い。手荒と非難されるのを覚悟で彼女の肩をこれでもかとばかりに揺さぶり、頬をぺちぺちと叩いた。それでも起きないものだから、少々力を込めて頬を叩いてみる。それでも、ラーナは目を覚まさない。
 流石に不審に思って、リンはラーナの顔に自分のそれを近付けて――――異変を悟った。
 ラーナは、息をしていなかった。
「……ラーナ? おい、ちょっと、冗談だろ?」
 リンはラーナの両肩に手を置き、力のままに揺さ振った。力の抜けた身体は、ただ反動に任せて揺れるだけだ。どうやっても、動かない。
「何で……どうして」
 地獄に突き落とされた様な衝撃だった。
 先刻までは笑顔で笑っていたのに。なのに、何故。どうして。
「こんなの……嘘だろ?」
 どんなに呟いても、答えは帰って来ない。
 リンはラーナの身体を抱き締め、瞳を閉じた。強く閉じられた瞳から溢れる透明の雫は、ラーナの頬にぽとりと落ち、頬を伝った。それはまるで、ラーナも涙を流しているかの様に。
「ラーナ、雪だよ。真っ白な……綺麗な、雪」
 届く事は無いと分かっていても、それでもリンは呼び掛けた。
 強い眠気に完全に支配されるまで、ずっと。
 そう、これは夢なのだ。
 これは夢で、目が覚めるときっと。
 純粋な色に染まった街の中で、君が微笑んでいるんだ。
 そう、信じている。
 だから、夢ならどうか早く覚めて。
 そして、彼女の微笑みを。

*

 夜が明け、白く染まった街。その中で、静かに眠るふたりの姿が後に発見された。
 その表情は、ふたり共に穏やかな笑顔を 浮かべていたという。


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