twilight blue *
 ひんやりとした冷気が、身体を包む。
 それは適度に心地良くて、まるで空気に溶け込んでしまったかの様な錯覚すら起こさせる。辺りは鬱蒼とした木々に覆われていて薄暗く、太陽の光は完全に遮断されて欠片も見えない。昼なのか、夜なのか。それすらも判別出来ない程だ。
 リュートは辺りを軽く見回して、共に旅をしてきた者達の姿を視界に入れる。
 いつ終わるとも知れない長い旅。それを共に過ごしてきた戦友達だ。その中にひとりの姿が見当たらず、念入りに辺りを確認してみたが、やはり姿は見えない。何処に居るのだろう。
 いくらこの森が閉鎖的ゆえに安全と言っても、ひとりで居るのは得策ではない。何処かに危険が潜んでいるとも限らないのだ。そう思うといてもたっても居られなくなって、リュートは彼女を探しに行く事を決めた。
 彼女は繊細ながら、実のところ強い。精神的にも、戦闘技術にしても。どちらに於いても、リュートより遥かに。けれどそれでも、彼女は女性なのだ。護ってやらねばならない、そう思う。
 不意に立ち上がったリュートに、仲間達は視線を向けた。けれど彼の意図が分かっているのだろう、誰も言葉を発しようとはしなかった。皆の思いは、リュートにも分かっている。
「リュート」
 仲間のひとりが、呼び止める。リュートは足を止め、振り返った。
「ここの地形は入り組んでいるから、気を付けなさいよ」
 忠告に頷いて、リュートは深い森の中へと向かっていった。


 森の中を思うがままに歩き回る。宛てなど何処にも無いからだ。
 風に揺れる木々の葉の擦れる音や、小鳥の囀る声が耳に届く。その中に混ざる様にして、水流の音が微かに聞こえる事にふと気付いた。それに導かれる様に、音のする方に足を進める。そこに彼女が居ると思ったからでは無い。それはあくまでも、気になったからだった。木々の間を抜け、草を掻き分け、先へと進む。音は段々と近くなり、そして確かに聞こえる様になっていく。それを頼りに進み続けると、湖の広がる空間に出た。
 そこに飛び込んで来た光景に、思わずリュートは叫ぶ。探していた、少女の名を。
「ユナン!」
 その声に反応して、少女が振り返った。穏やかな表情をその顔に浮かべ、小さく笑む。
「……リュート」
「何やってるんだよ、そんな所で!」
 状況を把握出来ず、リュートは感情のまま叫ぶ。
 ユナンは、湖に身を委ねていた。今でこそ胸の辺りまで浸かっている状況だが、先刻までは、リュートが名を呼ぶまでは、風に吹かれて波紋を作る水面に全身を預け、湖上に静かに浮かんでいたのだ。この状況で、驚かない方がおかしいだろう。
「そんなに慌てる事無いのに」
 苦笑して、ユナンは言う。けれど第三者からしてみれば、それは無理という話だ。
「こっちは心臓が止まるかと思ったよ」
 少し拗ねた素振りのリュートの言葉に、ユナンはすまなそうに笑った。
「ごめんなさい。水が、あんまりにも気持ち良さそうだったから」
「だからって、湖に全身浮かべる事無いだろ?」
「だってこの方が水を全身に感じられて、何だか清められる気がしたんだもの」
 そう言うユナンの顔が輝いて見えるのは、煌めく水面の輝きを映しているからなのだろうか。
 黙り込んでいたリュートを不思議がって、ユナンは小さく首を傾げる。
「……ごめんね?」
「いいよ。謝らせたい訳じゃないんだ」
「うん」
 小さく頷いて、ユナンはそのまま黙り込む。リュートは生まれた沈黙がもどかしくなって、湖の畔まで足を進めた。たゆたう水の中に、片手を差し入れる。ひんやりとした感触が、リュートの手を包む。たったそれだけで、身も心も癒される様な気になった。ユナンが湖に入った理由が、ほんの少しだけ分かった様な気がする。
「気持ちいいや。冷たくて、清らかで」
「ほら、私の言った通り」
「ごめん」
「謝らなくてもいいのに」
「ごめん」
「また言った」
「……ごめん」
 また謝ってしまって、リュートは苦笑した。ユナンも、それを見ていて思わず吹き出す。
「……もぅ、言ってる側からこれなんだから」
「だってさー」
 言って、また笑う。こんな他愛無い会話を交わして、笑い合って。それが一番楽しかった。楽しくて、好きだった。
 彼女と出会って、一緒に旅に出て。いろんな出来事を経験した。喜び、悲しみ、恐怖、怒り。良い事も、悪い事もあった。けれどそれを乗り越えて此処まで来れたのはきっと、彼女が居たから。
 まだ旅は終わらない。これからも旅は続いていく。いつ終わるのかも分からないままに。けれど、彼女が居れば安心出来る。この先に待つのがどんなに険しい道であろうとも、彼女と一緒にならば乗り越えられると信じているから。
 リュートは自らも湖の中に身を浮かべる。全身に触れる水の冷気が冷たく、心地良かった。
「ね、凄いでしょ?」
 同意を求める様に、ユナンが言う。リュートは頷いた。
 ふたりは暫したゆたう水に身を委ね、清らかなる癒しの恵みをその全身で感じていた。
「ずっと、一緒に居てね」
 不意に、ユナンが口を開いた。心細そうな、消え入りそうな声で。それに、リュートは強く頷く。
「あぁ、ずっと一緒だ。旅が終わっても、ずっと」
「嬉しい……」
 その時彼女の頬を流れ落ちた輝く光は、湖の欠片だったのか。それは彼女にしか分からない。
 ただ、彼女のその言葉だけで充分だった。

 高望みはしない。
 他には何も要らない。
 ただ、貴方が。
 ただ、君が。
 傍に居てくれると言うのなら。
 他に欲しい物など無い。
 だからどうか、傍に居て下さい。
 ずっと、ずっと。
 一緒に。
 一緒に居よう。

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