Eternal Melody *
 街は華やかに飾り付けられて、道行く人々の気持ちを否応なしに昂ぶらせている。寒さすら、忘れさせる程に。
 そんな雑多な喧騒をぼんやりと眺めながら、少女がぽつりと呟いた。
「やぁね、皆して浮かれちゃって。聖夜だか何だか知らないけど、本当にその日が来るって疑わないのね。いつ終わりが来るかなんて、分かりゃしないのに」
 少女の纏う黒衣が、風にさらわれる。周囲の絢爛と極端の色。それは鮮やかに彩られた街中では、酷く目を引く。
 しかし、通り過ぎる人々の視線が彼女に向けられる事は無い。まるで其処に居る少女の姿が誰にも見えていないかの様に、誰もがその傍らを自然に通り過ぎてゆくばかりだ。
「さぁて、そろそろ催促に行こうかしらね」
 始まりを宣言する様に呟くと、少女は喧騒の中に混ざって消えた。街は輝きを失わない。

*

 ふわりと漂う風が、頬を撫でる。人々が厭う、凍る様な厳しい冷気を孕んだ冬の風。それが、やけに心地よく感じた。
 世間はもう、クリスマスを目前にして大忙しだ。今年のパーティはどうしよう、プレゼントは何が良いだろう――――そんな会話の遣り取りも、いつものこと。けれど何故だろう、それがいつもより遠い事の様に感じる。自身の忙しさが例年に増して酷くなったのが原因なのだろうか。考えながら、空を仰ぐ。その瞳には、暗闇しか映らない。
 昨今の急激なクラシックブームに乗せて、今年の仕事が一気に増えた。その数は、例年の比ではない。幾つか断れば余裕も出来たのだろうが、出来るだけ多くの音楽に携わっていたかった為に全て受けた。そもそも、本来の彼の仕事量からして多かったのだ。そこに更なる量がプラスされたが故に、年始から半端ではないスケジュールをこなす羽目になったが、今までは序の口だ。問題はこの後、クリスマスシーズンの大量公演を乗り切れるかどうか。
 片瀬澄。それが彼の名前。街に出てその名を出せば、皆が知っていると答える。皆が揃って天才だと答える名であった。彼は神から才能を賜った、最高の人材であると。誰もが口を揃えて言う。
 クラシックは、音楽の中でも敬遠されがちな分野だ。今時の流行曲の様に、毎日聴いて楽しむ者は少ない。それを革命的に変え、ブームの一端を荷っているのが、片瀬澄その人である。
 彼の存在は人々の関心を惹いた。彼の奏でる旋律に、皆が心酔わせた。そして、彼はいつしか生きた伝説になり、巷では高い評判がなされていった。――――盲目のピアニストとして。
「やっと見つけた!」
 苛立ちの含まれたその声に、澄は首を巡らせる。漆黒に包まれた景色では、音だけが方向を探る唯一の方法だ。かつかつと靴の音が近付いてくる。それを察して、澄はそちらに身体を向けた。足音はどんどん近付いて、澄の傍でぴたりと止まる。
「何でこーんな所に居るのよッ! このあたしが探しちゃったじゃないの!!」
 どうやら目の前の彼女は、酷くご立腹の様子だ。その理由は、いまいち澄には分からないが。
「ごめん。手間を掛けて」
 取り敢えず、素直に謝っておく。それで納得する様な彼女で無い事は充分に承知しているのだが、謝らなければ余計に癇癪を起こす事は経験で悟っていたからだ。
「ごめん、じゃないわよ! 謝るくらいなら来ないでくれる!? あんた、自分がどういう状態なのか分かって言ってる?」
 案の定、彼女の怒りは収まらない。しかし彼女の言も尤もなので、黙ってそれを聴いている。
「危ないんだからね、屋上は! 柵とか網とか、壊れてたら落ちてるかも知れないの!! あんたはそれが分からないんだから、危険でしょう!? 死んだらどうするつもりよ!!」
 その言葉に、思わず笑みが漏れた。真剣に怒っている所を笑われて、彼女の怒りは更に高まったらしい。ムキになった様に、叫びの音量が増した。
「何が可笑しいの! あたしは真剣に忠告してるのよ!?」
「……だって、矛盾してるから」
 何が、と言いたいのだろう。痛い程に真っ直ぐな視線が身に刺さってくるのが気配で分かる。きっと、眉根を寄せてきつく睨んで居るに違いない。その姿を拝む事が出来ないのが、残念だ。
「君の仕事は僕の魂を回収する事じゃないか。それなのに、死んだらどうするなんて心配をするんだから、つい可笑しくてね。君の言動は、どう見たって矛盾しているだろう?」
「う、煩いわねあんた! 人の揚げ足取らないでくれる!? あれはね、あたしが然るべき時にあんたの魂をちゃんと回収するんだからその前に死なれちゃ困るんだ、って話よ。そーゆー意味なの、分かった!?」
「はいはい」
 彼女の真意は分からないので、まぁそういう事にしておく。
 話題を挫かれて、彼女の怒りは萎んでしまった様子だ。盛大な溜息ひとつが、耳に届く。
 彼女は、自らを死神だと名乗った。そして今、澄の魂を回収すべく傍に居る。制限時間はクリスマス。それまで待つから好きな様に余命を過ごすよう、現れた彼女は言った。そうして現在に至る。
 しかし彼女の言動は、何処か澄を案じている様に感じる事もしばしば見られた。そんな妙な矛盾に可笑しさを覚えつつも、幸せに残りを過ごせればそれで良いと、澄はそう思っていた。
 そもそも、これは約束だった。――――否、契約と言った方が相応しいのかも知れないが。
 澄は生まれつき視力を失っていた訳では無い。幼い頃にピアニストとしての才能を開花させた澄は、若くして海外へ留学し、本場の音楽を学んだ。そして帰国の際に乗った飛行機が事故に遭い、生死を彷徨いかけた過去がある。
 彼女と出会ったのは、その時だ。
「命が惜しくば、契約を交わしなさい」
 彼女は、そう言った。そうすれば魂を貸してあげる、と。但し、期限付きで。定められた期日が来れば、魂の返還にやって来る事を承知で、生きたいかと。そう問い掛けた。それに澄は頷き、契約は交わされた。そして契約の証として、生を望んだ枷として、両目から光が失われたのだ。それは皆、事故の代償だと疑わなかった。
 そしてそれから数年が経ち、指定された期日を迎え、彼女は宣言通り澄の前へとやって来たのだ。そこから、明確なカウントダウンが始まった。しかし、澄の心は穏やかであった。日に日に気分が落ち着いたものになっていく。全てを悟ると、こんな気持ちになるのだろうか。そんな達観した心持ちにすら、なる程だ。
「ちょっと、あたしの話聞いてるの?」
「勿論。君の気持ちは痛い程分かったよ」
「なら、いいんだけど」
 まだ納得はいかない様子でもあったが、半ば諦めの口調で彼女は言った。
「ほら、こんな所で油売ってて良いの? 本番まであんまり時間無いんだからね! リハーサルだってあるんでしょう? 此処に居ると今にスタッフに怒られるわよ」
「そうだね」
 何だかマネージャーみたいだなと苦笑しながら、澄は彼女に従った。

*

 毎日の様に開かれるコンサートを終え、残すは最後のクリスマスコンサートのみとなった。
 これが最後の――――事実上、最期の仕事になる。そう考えれば、自然と力が籠った。
 今までも手を抜いた事など無かったが、最期となるならそれ以上の力を尽くしたい。そう思うのは、芸術を扱う者としては当たり前だ。だからこそ、打ち合わせとリハーサルを入念に進めた。少しでも手落ちの無い様に、完璧なものとする為に。
 いつにない細かさに、スタッフも些か困惑している様子だ。ミスをしてもいいと言う訳では無いが、普段は肩の力を抜いてのびのびと、気楽にをモットーにしていただけあって、その差に驚きを隠せないのだろう。
 そうして忙しくしているうちに、ずっと傍に居た筈の彼女の存在にまで気が回らなくなっていた。彼女が居なくなっていた事には気付いたのは、本番が始まる直前だった。
「シーア……?」
 彼女の名を、小さく呼ぶ。返答は無い。いつも事ある毎に茶々を入れたり、口出しをしてくる彼女が居ない。傍らの静けさに気付いた時には、遅かった。何処に居るのかと辺りを見回しても、ただ暗闇が映るばかり。視力を失った事に対する後悔は無かったが、今初めて不便だと思った。彼女を捜しに走りたくても、その姿を捉える事が出来ない。
 そのもどかしさに、腹が立った。
「時間ですが、準備は宜しいですか?」
 進行役の声が、澄の意識を現実に引き戻した。
 そうだ。今は最期の舞台を成功させなければならない。精一杯、命を懸けて。最高のステージを。
 彼女にも届く様に、旋律を奏でよう。そうすればきっと、戻って来るだろう。
 そして別れの言葉と礼を――――。



 妙に腹が立っていた。何に対しての怒りなのか、自分自身でも分からない。
 澄に対してか、自分に対してか、それとも現実に対してか。それが分からないから、余計に腹が立つ。
「何なのよ……」
 日が沈み、夜も更けていく頃。漂う風は、鋭い痛みを伴う冷たさだ。けれど、そのくらいが丁度良い。昂ぶった感情を落ち着かせるには、それくらいの冷却が必要なのだ。
 彼が好んで居た屋上。街を見下ろすこの高みも、眼窩に広がる数多のイルミネーションも、彼には分からない。それでもなお、彼は其処を訪れる。それが何故かなんて、シーアには分からない。分からない筈なのに、彼女もまた気付けば此処に来ていた。その理由すら、何も分からないまま。
 自然と足を向けてしまう、そんな不思議な力が此処にはあるのかも知れない。
「どうすればいいの……?」
 浮かび上がってくる正直な答えに未だ頷く事も出来ずに、シーアはその場を離れた。



 割れんばかりの拍手が会場を包み、その歓声は鳴り止まなかった。
 通常ならばこれで終わる筈の舞台は、急遽そのアンコールに応える事となり、計画に無かった事態に戸惑ったスタッフのひとりが、曲は任せます、とそれだけ伝えに来た。澄は分かりましたと答えて、自身で曲を選択する。
「シーア?」
 ふと近付いた気配に、呟く。返答は無く、その代わりに言葉が投げられた。
「終わったら、話があるの」
「……分かってる」
 何の事は無い、短い会話。それが何を意図しようとも、それで充分だった。澄は小さく微笑んで、ステージへと向かい一歩を踏み出す。それに気付いたスタッフが駆け寄って澄の手を取り、舞台の中央まで導いた。その流れは当たり前で、自然なものだ。何度も眺めたその光景を、シーアはただ眺めていた。
 澄はアンコール用に数曲候補を挙げ、そこから選抜してまず二曲、クリスマスらしい物を弾いてみせる。誰もが耳にした事のあるだろう曲を。そして二曲は、定番のクラシックだ。そして最後に一曲、オリジナルの楽曲を選んだ。最近になってから、澄が造り上げた曲。客の反応は、想像以上だった。全ての曲が終わった時には、全ての客がスタンディングオベーションで彼を湛える。こうして大成功のうちに幕は閉じ、澄の名声は一層高まった。
 コンサートの成功にスタッフが大喜びする中、澄はシーアを捜していた。姿が見えない代わりに、気配を探る。しかし、彼女らしき人物は澄の近くには居ない様だ。何処に居るのだろうか。
「澄さん、屋上で待ってる、って伝言を預かって来たんですけど。長い黒髪の女の子なんですが、お知り合いですか?」
 長い黒髪。記憶にある姿を思い起こせば、彼女は綺麗な黒髪だった事を思い出す。
「ええ。ありがとうございます」
 一緒に行きましょうかというスタッフに丁重な断りを入れて、澄は急いだ。ひとつの疑問を胸に。


「早かったのね」
 すぐ傍から、シーアの声がした。
「シーア、どうして」
 ――――どうして、スタッフに姿が見えた?
 澄は疑問をぶつけた。苦笑する様な、気配。今にも泣きだしそうな声で、返答があった。
「あんたの所為なんだからね! あんたが……頼りないから、だから……ッ!!」
 声だけの状況では、彼女の表情が分からない。泣いているのだろうか。
「喜びなさいよ? 死ななくて済んだんだから」
 その一言に、絶句した。
「どうして。君は僕の魂を回収しに来たんだろう? 僕は確かに魂を借りた、契約を交わしたんだ。だからこうして今日まで生きて来れた。それなのに、どうしてそんな事を……」
「このあたしに、言わせたい訳!? あんたと一緒に居たいから上司に直訴した、って!」
「え……今、何て」
 澄は目をぱちくりとさせた。彼女は、何を、言っているのだろう?
「何度言わせるのよ! あたしが居るのが嫌なら嫌って言えばいいじゃない!!」
「嫌だなんてそんなこと! 嬉しいんだ、だから」
「何よ、喜ぶのは早いんだからね」
「……え?」
 驚く暇も無く、目を閉じる様にと言われた。戸惑いつつもそれに従って目蓋を下ろすと、小さな手が頬にそっと触れた。温かさが、伝わってくる。彼女の掌の温度に意識を注いでいると、こつん、と額が触れた。
「目、開けて」
 両手は頬に触れたまま、額だけを離してシーアが言った。ゆっくりと、目蓋を上げていく。暗闇の視界から、ゆっくりと彩りが生まれていく。顔を僅かに上げると、いつか見た懐かしい少女の顔が映った。
「シー……ア?」
「ん、そうだよ」
「見えてる……?」
「あたしからのクリスマスプレゼントだよ。契約は破棄したから、目もちゃんと返すね」
 言いながら、シーアはそっと両手を離す。澄は真っ黒な彼女の瞳を見つめた。
「破棄って、どうやって?」
「あたしはもう、死神じゃあない。あんたの魂は獲れないって言ったら、死神失格だってクビにされちゃった。だから今はね、もうただの人間。何の力も持たない、ただの人間なんだよ」
「人間……って」
「クリスマスだから、特別だってさ。全く、クリスマス様々ね。死神がクリスマス、って概念は良く分かんないけどさ」
「良かった……!」
 澄は思わず、彼女に抱き付いた。突然の事に、きゃ、と声を上げたシーアは、みるみるうちに顔を真っ赤に染め上げる。
「ありがとうシーア、本当にありがとう……!」
 状況に戸惑うシーアはどうしたらいいのか分からずに、しばらくされるがままになっていた。
 こうして視力を取り戻した澄はその後、益々精力的に活動に打ち込んだ。その傍には常にひとりの少女が付いて、彼をサポートしているという。その道は平坦なものばかりでは無かったのだが――――それはまた、別の話。

 片瀬澄。
 その名を聞いた者は、口々にこう呼ぶ。
 ――――奇跡のピアニスト、と。

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