005 : 一輪の花 *
setting from “君に捧ぐ華”

 城の中は騒がしく、慌しさに満ちていた。通常ならば荘厳な雰囲気を纏う静寂が漂っている筈だが、現在の城内にその気配は欠片も無い。広々とした廊下には、数名の下級兵士達が右往左往している。それは、明かなる異変。
「何があった?」
 身近な所に居た者を捕まえて、問う。
 振り返った兵士は青年の顔を見て驚くと共に、反射的に指先に至るまで力を込めた。
「エスカ・ギリヤード将軍……! 執務、ご苦労様でございます!!」
「挨拶はどうでもいい。それより、何があった?」
「は、それが……『華』が消えたとの事で」
 青年――――エスカの顔つきが変わった。その変化に、兵士の顔には恐怖が浮かぶ。
「た、ただいま全総力をあげて捜索を……」
 しどろもどろになりながら続く兵士の言葉など、彼の耳には届いていなかった。
 軍服の胸元を勢い良く掴み上げ、エスカは声を荒げる。
「それが分かった時点で何故、真っ先に俺に知らせなかった!?」
「も、申し訳ございません……!」
 怯えきった兵士の表情は凍った様に動かず、ただ謝罪の言葉だけが口から流れ出る。その恐怖を宿した瞳に自身の姿が映るのを見て、エスカは漸く我に返った。
「……もう良い」
 兵士から手を離す。緊張の糸が切れたのだろう、兵士はその場にへたりと座り込んでしまった。まだ固まった表情をしている兵士に、エスカは声をかける。
「……すまなかった。手荒な真似をしたな」
「い、いえ。私どもの不注意であった事には変わりませんので、そんな」
 慌てる兵士に手を差し出す。
「立てるか?」
「あ、はい。自分ひとりで立てます。将軍の手を煩わせる程の事では」
 言いながら立ち上がろうとして、またすとんと廊下に座り込む。腰が抜けてしまったらしい。何度も立ち上がろうとしても、同じ結果に終わった。エスカはこうなる原因を作った行いを省みつつ、今度は腕を差し出す。
「いいから掴まれ。いつまでもそのままでいる訳にもいかないだろう?」
 兵士は何も言えずただ小さく頷くと、差し出された腕に捕まって何とか立ち上がった。
「申し訳ありません。将軍のお手を煩わせました」
「いい。謝るな。私も同罪だ、引き分けた様なものだろう」
「……はぁ」
 困った様に眉尻を下げた兵士が、ふと動きを止めた。
「どうした?」
「し、将軍……」
 呟いたきり黙り込む兵士に疑問を覚え、彼の向けるのと同じ方向に視線を送る。
 そうして、悟った。
「どうか致しましたの?」
 ふたりの視線を受けて小首を傾げるのは、少女。緩く波打つ淡い色の髪をした、小柄な娘だ。胸元には、大輪の花を思わせる紋様。それは間違いなく、失踪した筈の、『華』の証であった。
 彼女のアメジストを思わせる瞳が、疑問の色を浮かべてエスカを射抜く。
「どちらへ行かれていらっしゃったのです? 失踪したと聞いて、心配したのですよ」
「あら、失踪だなんて大袈裟な。散歩に行っていただけよ?」
 悪びれも無い様子で、彼女は笑う。エスカは言い聞かせる様に、言った。
「ならば伴をお付けになって下さい」
「ひとりになる自由は無いの? 誰しも、ひとりになりたい時だってあるわ」
 その特殊な位置付け故に様々な制約を受けている事は承知している。当人にしてみればそれが窮屈以外の何物でもない事も、分かっている。だが、かといって彼女の行いを許容する事は出来ない。唯一無二の存在である彼女に、何かが起きてからでは遅いのだ。
「ならばせめて、侍女にでも行く先をお伝えになって下さい」
「行く先なんてその時の気分で変わるもの、分からないわ」
「ですが貴方の代わりなど、ひとりたりとも居ないのですよ?」
「……分かってますわ」
 観念した様に、少女は呟く。彼女自身も、その言葉の重みを痛い程に理解している筈なのだ。
「何はともあれ、ご無事で何よりです。さあ、お部屋でお休み下さい」
 エスカの言葉に少女は頷くと、真っ直ぐに自室へ向かう道を歩み始めた。
 廊下に散らばっていた兵士達が慌てる様に頭を下げている。何人かの兵士が彼女を送り届けるのを確認してから、エスカは小さく息を吐き出した。
 ――――何なのだろう、この身に浮かぶ疑念は。
 形にならない妙な違和感が、先程から心中を支配していた。その理由も原因も分からぬままに。
 真実に彼が気付かされるのは、もう少し後の事である。

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