017:さあ、行こうか *
setting from “神のきまぐれ”

 ――――船に女を乗せてはいけない。
 そう最初に言い出したのは、何処の誰だっただろうか。
 それは迷信の様に世間に広まり、船乗り達は疑う事無くそれを信じた。
 しかし何処にも無謀な者は居るもので、女性を伴って船出に出る者も少なくないのが事実。
 そうして大海に臨んだ挑戦者達は、悉く帰ってくる事は無かった。
 それは噂となって再び世間に広まり、その迷信は真実に格上げされる。
 いつしか海は男だけの神聖な物になり、女は船に触れる事すら叶わなくなっていった。

*

 潮の香りを孕んだ風が、ふわりと駆け抜ける。空は青天、陽射しが心地良い。
 波止場に止まった大きな船の見晴台に座り込み、遠く視線を投げれば、青い色彩ばかりが広がっている。空の青と、海の青。それらは境界線で混じり合って、滲んだ色を見せていた。
「……やっと見つけた!」
 幾分か苛立ちの含んだ声音が、後ろから掛かった。青い世界から視線を動かし、振り返る。
「そんな技術があるんなら、魔術師にでもなれば良いのに。儲かるよ?」
「冗談。堅苦しいのは嫌いなんだよ」
 掃除用のデッキブラシを椅子代わりにしてふわりと宙に浮く彼は、不機嫌さを隠そうともせずにそう突っ撥ねた。浮遊術と言えば、陸の魔術師達の中でも高等技術と言われている。それを、彼は顔色ひとつ変えずにこなしてみせるのだ。天才、と言うべきなのかも知れない。
 けれど本人は、そんな技術の評価を一切受ける事の無い海へと自らを置いた。いつだったか、それでは勿体無いと不服な顔をしてみたら、関係ないだろうと返された様な気がする。
「皆が呼んでるよ。もう出るんだってさ、最後に確認しておきたいみたい」
 彼は先刻の遣り取りはまるで無かったかの様に、要件を告げた。
「ん、分かった。じゃ、此処から下ろして」
「何でさ」
「自分で降りるの面倒なんだもん。そっちの方が楽じゃん?」
「馬鹿言わないでくれる? そんなの手に負えないね」
 年相応と言うべきか、まだ幼さの残る顔立ちに反して、彼の言動はひどく大人びている。周囲を馬鹿にすらしている様にさえ見えるその態度は、時として周囲の誤解を招き易かった。
「…………出来るくせに」
 納得いかずに呟いてみた頃には、もう彼の姿は甲板の上にあった。逃げ足が速いと言うか、何と言うか。溜息ひとつ吐いてから、見晴台から降りた。気付けば、他の面子も集合し始めている。
「もう出航するんだって?」
 甲板に降り立ってそう問うと、副船長を務める青年が代表して頷いてみせた。人当たりの良い爽やかな笑顔に若干の苦笑を滲ませて、彼は言う。
「陸にはもう飽きたんだって。もう用事も無くなったし、早く海に出たいって」
「……誰が」
 そんな事を、この船の船長が言うとは思えない。付き合いは限りなく短いが、そんな気紛れを起こす人材では無かった筈だ。そう思って問うてみると案の定、予想通りの返答があった。
「あ、それ俺だわ」
 悪びれた様子も無く飄々と片手を上げて主張するのは、船乗りらしくない派手さを持った男だ。いつも気紛れでその日その日を気分任せで生きている様な、そんな奴である。
「何て言うかさ、此処は俺の求めてる場所じゃねぇって言うか?」
「…………何故お前がこの船に乗っているのかが理解出来ない」
 彼の隣に立つ青年が、不快も露わに眉根を寄せて言う。真面目を絵に描いた様な性格の青年と道楽を好む男の反りは面白い程に合わない。このふたりの口論など、日常茶飯事だった。
「そりゃこっちの台詞だ! この狭い空間にお前と一緒なんて冗談じゃねぇっての!!」
「だったら降りろ、今すぐ降りてしまえ!」
「馬鹿言え、降りるのはお前の方に決まってんだろ!」
「……で、あの船長がそれを許可したんだ? 珍しい」
 罵り合うふたりは見なかった事にして、話を戻す。副船長は小さく首を振った。
「まぁ申請する前に出航の命が下ったって言うか。実際の所、単なる偶然だね」
「なんだ、そっかぁ」
 もしそんな申請を許可していたら、きっと明日は嵐に見舞われていただろう。でも、それはそれで面白そうだったな、などと考えてしまうのは不謹慎だろうか。
「あぁそうだった、それで確認ってのは?」
「君が、本当に海に出るのかどうかの再確認。出航してからじゃ、後戻り出来ないからね」
 問いにしっかり答えつつ、彼はふたりの仲裁に入った。流石と言うか何と言うか、慣れている。
「問題無いよ。気分も変わって無いしね。それより、そっちは良いの?」
「え、何が?」
 きょとんとした顔で訊き返されて、呆然とした。その場に居た全員がその言葉の意図を図りかねる様子で、首を捻っている。彼らは、自分達の置かれている状況を、分かっているんだろうか?
「だって、不利なのはそっちでしょ? この船が沈んでも、文句言わないでよねっ」
「あぁ、その件ね。だったら大丈夫っしょ」
「……どっから出てくるの、その自信が」
 横から割り込んできた声に、思わず突っ込んだ。
 声の主は魔術師少年の横に座り込んだまま、何も気にしていない様なへらっとした笑顔で手をひらひらさせている。飄々として掴み所の無い彼の性格は能天気と言い切ってしまって良いのか、甚だ疑問だ。
「皆、揃っていたか」
 ふと響いた凛とした声に、場の空気が僅かだが引き締まった。
 この船上に置いては上下関係も無いに等しく、全く気負う必要は無いのだが、それでもこの船のトップに立つ存在は周囲にしてみれば矢張り「船長」なのだ。其処には、超えられない「何か」がある。
「そろそろ時刻だ、準備を頼む」
「了解」
 応答の声を確認すると、船長はこちらを向いた。真っ直ぐな視線が、少しだけ痛い。
「最後にもう一度だけ訊いておく。……これで、いいんだな?」
 船長の淡々とした声に、満面の笑みで応えてみせる。
「何言ってんの、大丈夫だよ」
 妙に自信の窺える声音で、断言してやる。
「だってあたしは、海の女神様に愛されてるんだから」
 それに言葉を返せる者は、その場にひとりとして居なかった。

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