035:途切れた声 *
setting from “Etranger”

 それは、本当に偶然だった。
 何が偶然かと聞かれれば、迷った事の方なのか、町を見つけた事の方なのか悩む所ではあるが。
 今のプリムラには、記憶が曖昧な所があった。どうして此処に居るのだろうと思い起こしてみても、何も浮かんでこない。自分自身の事は憶えているから、単なる記憶喪失では無い、と思う。
 ただどういう経緯で道に迷ったのか、それが全く思い出せない。気付いたら見知らぬ場所に来ていて、帰るべき道が分からないのだ。戻るべき場所も知っているのに、戻り方が分からない。そんな事があるのだろうか?
 疑問を抱きながら彷徨っていたプリムラが、ひとつの町を見つけたのは幸運だった。
 その町は塀で囲まれており、入り口はひとつの門のみ。
 プリムラは門を潜り、町へと足を踏み入れた。

 ――――眠った町。

 そこはまさにそう表現するのが相応しい、静かな町だった。人の姿はおろか、動物さえも見当たらない不思議な空間が其処には存在している。草木が青々と繁り、多くの家が整然と立ち並びぶ様はごく普通の町並みそのもので、少しも寂れてなどいない。だというのに、人が住んでいる様な気配すら無いのは何故なのだろう。
 静まり返った町を見上げ、プリムラはこの町の生きて来た歴史に思いを馳せる。
 と、ふと視界の隅を過ぎった影に気付いて、プリムラは反射的に動いていた。
 裏路地に吸い込まれる様にして消えていく姿を、慌てて追い掛ける。
「……あのっ、すいません!」
 背に呼びかけると影は足を止め、ゆらりと振り向く。
 それは、女性だった。
 色褪せた紫色のロングコート。緩いウェーブの掛かった髪は乱れて顔の大半を覆っており、その表情は上手く読み取れない。その隙間から見える顔は、青白さがやけに目立つ。輝きを失った瞳が、プリムラを捉えた。
「貴方……ここの人じゃないわね。そうじゃなければ、あたしに話しかけたりしないもの」
 やや低めの声が、自嘲する様な響きを持って発せられる。彼女の纏う空気に、プリムラは思わず次の言葉を呑み込んだ。何を口にしていいのか、分からない。ただ呆然と、その場に立ち尽くすだけ。
 女性が、微笑を浮かべる。何処か困った様に。
「この街には誰も居ないわよ。今は、ね」
「今……は?」
「そう、今は。あの時計塔を目指して歩きなさい。あれはこの町の何処からでも見えるから大丈夫」
 彼女の指が差し示した方向に、プリムラは視線を向ける。高く聳え立つ時計塔が、圧倒的な存在感を持って迫る様に見えた。彼女の言は正しいらしい。あれだけの高さを誇る塔を、覆い隠す物など存在しない。
「そこに行けば、誰かに会えるかも知れない。もうすぐ時間だから」
「時間て、どういう――――」
 再び視線を戻した時には、女性の姿は消えていた。
 それはまるで、幻のように。

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