setting from “火祭り”
「三日間は此処に滞在する、って言ったけど……やっぱり帰るよ」
唐突に、柳一はその言葉を口にした。自分でも突然だったと思う。けれど知らず溜まっていった不穏な感情が、限界に到達したのだろう。声に出してしまってから、それに気付く。慌てたのは氷河だ。
「えっ、どうしたのさ。何があったの!?」
これ以上無いと言わんばかりの慌てぶりで、氷河は問う。柳一は言葉を呑み込んだ。
咄嗟に出てしまった以上、取り消す事は出来ない。それに、此処に居るべきではないと思った事は事実だ。しかしその説明をする事が、柳一には出来ずにいた。どう話せばいいのか、まるで分からない。
「ねえ、柳一君。何があったの?」
縋る様な視線を向けた氷河が、再度問う。その疑問は尤もだろう。ただ不思議なのは、柳一自身も発言を疑問に思っている事であった。何故そんな事を言ったのか、自分でも分からない。可笑しな話である。
「別に、何かあった訳じゃない。何も無いよ」
「嘘。何も無かったら、どうして帰るなんて言い出すのさ」
何とか絞り出した言葉は、すぐさま否定の言葉に掻き消された。彼は、信じていない。
「強いて言うなら、帰りたくなったから……かな」
ただそれだけを、口にする。このまま此処に留まっていてはならないと、警鐘が鳴った。
あの時の情景は、未だに脳裏から消えない。あれが何であったのかは分からない。あの場所に居たのが氷河本人なのかも、氷河の姿をした偽物なのかも、分からない。しかしそれを本人に尋ねる事は憚られて、未だ全てが謎のまま。心には次第に不信感が募りつつあった。
「あと数日じゃない。別に、今すぐ帰らなくたって……」
「もともと此処に来たのは偶然だし。そもそも俺、部外者だし」
「そんな事無いよ、そんな事無い!」
どうして其処まで必死になるのか、柳一には分からない。
そう、柳一は部外者なのだ。この村の出身でもなければ、関係者でも無い。もともと頭数に入っていないのだから、居ても居なくても関係無いだろうに。
「氷河に会えて、良かったと思ってる。ありがとう」
その言葉に、その心に偽りは無い。柳一は素直な思いを口にする。
それが最後の言葉と思ったのだろうか。引き留める様に、氷河は手を伸ばして来た。子供が母親にする様に、袖口をきゅっと掴む。しかしそれは、咄嗟に出た反射的な行動だったのだろう。どうすればいいのか分からない――――けれど行かないで欲しいと哀願する様な目で、彼は柳一を真っ直ぐに見据えた。
「何だか分からないけど……ごめん」
不意に、氷河が謝った。彼の所為では無い。その筈なのに、否定の言葉は出な来ない。氷河は続ける。
「でも俺……柳一君には火祭りを見て貰いたいんだ。折角この時期に来たんだし、こんな機会は二度と無いかも知れないから。だから、お願い。あと、少しだけで良いんだ」
袖口を掴む手に、力が籠もる。
「それでも…………帰る?」
沈黙が訪れる。氷河の、掴む手が震えていた。けれどその手は、離れる事が無い。
柳一が否定の言葉を口にするまで、この呪縛からは解放されないのかも知れない。振り切って逃げる事も、不可能では無いだろう。だが、出来なかった。
ちらり、と氷河を一瞥する。許しを請う様な、けれどそれでいて強い意志の宿った様な、そんな目に射抜かれる。何故、こんなにも不安定な気持ちなのだろう。柳一の心が波立つ。
「……帰る?」
再度、問われた。頷く事も首を振る事も出来ずに、柳一は戸惑う。
「見ていってよ、火祭り。お願いだからさ……」
絞り出される、弱々しい声音。今にも泣き出しそうな程に歪められた表情。
それは、同情だったのか否か。半ば無意識に、柳一は頷いていた。
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