065:兄弟 *
setting from “Eternal Destiny”

 マサキは息を呑んだ。視線の先に展開していた光景は、彼にとって信じられない物だった。
 ――――涙。
 兄の涙など、過去に見た記憶が無い。初めて見た。兄の泣く、その姿を。
 共に過ごした日々には辛い事だってあったが、それでも微笑みを絶やさなかった。少なくとも、マサキの前では。兄として、強く在ろうとしていたのかも知れないけれど。そんな兄が見せた、涙。その衝撃は思った以上に大きく、マサキは動けなかった。
 兄貴、と呼び掛けようとして、マサキは口を噤んだ。踵を返し、そっとその場から立ち去ろうとする。無暗に触れるべきでは無い。それが最善の策と、そう悟ったのだ。
 そうして兄に背を向け、そろりと一歩を踏み出した時だった。
「……マサキ?」
 呼び止められた。マサキは反射的に足を止める。振り向くと、兄と視線が合った。いつからかは分からないが、気付かれた。その事が、妙に悔しい。気を遣う筈が台無しだ。
 引き戸に半分身を隠す様にして、マサキは視線を床に落とした。部屋に入る気にはなれず、また兄を直視する事も出来なかった。ただ黙ったまま、兄が声を掛けてくれるのを待ち続ける。
 何を言えばいいのか、分からなかった。言葉が浮かんで来ない。頭の中は真っ白だ。自分らしくない、とマサキは思う。明るいだけが取り柄の筈の自分が、どう対処すべき分からず戸惑うなんて。
 つうっと、マサキの頬を透明な雫が伝わり落ちた。視界が歪む。
「…………?」
 自分でも、理解が出来ない。何故、自分が泣いているのか。固まった様に動かない、動けない中で、マサキはただ涙を流し続けていた。頬を伝わり終わった雫達は手を組んでひとつに集まり、大粒の塊となって地に落ちた。フローリングの床に小さな水溜まりを作り、その面積を増やしてゆく。それを、ただ眺め続けている自分がいるばかりだ。
 ふと落ちた影に、顔を上げる。其処には兄の姿があった。間近で見た兄の顔は、目こそ腫れていたがいつもの様に微笑んでいた。優しく、穏やかに。
「まったく、お前が泣く事なんて無いだろう?」
 そう言って、マサキの頭に手を乗せる。あたたかな掌に、気持ちが落ち着く様な心地がする。
「お、俺だって分かんないよ! 別に泣くつもりなんて、無かったんだから」
 手の甲で涙を拭い、マサキは釈明をする。漸く出てきた言葉に、自分でも安堵した。
「…………悪かった」
「え?」
 いきなり兄が謝って来たので、再び俯きかけた顔が思わず上がる。目を瞬かせるマサキを前に、困った顔をして兄は笑った。
「まさか、お前に見られるとは思わなくて。弱い所、見せたな。俺がしっかりしなきゃいけないのに」
「別にいいよ。誰にだって、弱い所はあるんだからさ。兄貴だからしっかりしなきゃいけないなんて、そんな事無いだろ。兄弟なんだし、別に兄貴が弟に甘えたって良いんじゃないの?」
「……あぁ、そうだな。お前の言う通りだよ」
「たまには俺の言う事も正しいんだからな。憶えとけよ、兄貴」
 マサキは満面の笑みを浮かべた。自分の中で、何かが吹っ切れた様な感覚がする。
「俺、これから出掛けて来るけど、大丈夫だよな」
「そこまで心配される程、落ちぶれてはいないよ」
「ん、分かった。じゃあ、行ってくるから」
 手を振りながら兄に別れを告げ、マサキは家を後にした。

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