084:紡がれた言葉 *
setting from “深淵の楔”

 暗い闇の中に、彼は居た。
 腹部には、無数の刺し傷。普通ならば、既にこの世を去っていてもおかしくない程の傷と出血であったが、彼は生きていた。痛みこそあるが、その感覚は不思議と軽い。ほんの少しの掠り傷が痛む様な、そんな感覚に似ている。矛盾しているが、事実なのだから仕方が無い。
 何事も無かったかの様に、冷たく広がる大地の上に横たわっている状態だ。ただ、周囲を見渡せば阿鼻叫喚の光景を呈していたのだけれど。今の彼に、それを判断するだけの思考は無かった。
 自分は、何の為に存在しているのだろうか。纏まらない頭で、考える。
 周りに憎まれ、疎まれ、恨まれ続けてきたのではないだろうか――――弟にも、妻にも。
 しかし、その答えを見出す事は出来ない。明瞭な意識の時でさえ、結論を出す事は難しいだろう。それは、分かる事の無い疑問。永久に、答えを求め続ける問い掛けだ。
「死ななかったのね……」
 何処からか、声がした。あの忌々しい女の声が。
 闇の中に、白い光が現れた。それが女の纏う着物の色だと認識するまで、どれだけの時間を要しただろうか。彼女は純白の衣が赤く染まるのも気にせず、彼のもとへと歩みを進める。
 そうして彼のすぐ傍までやって来ると、静かに視線を落とした。哀れむ様な、蔑む様な、静かな怒りを宿した瞳で。それでいて慈愛すら感じさせる瞳で。彼を、見下ろしていた。
「…………死ななかったのね」
 彼女は、ぽつりと繰り返した。視線が、表情が、揺らぐ事は無い。
「何故死ななかったの? 貴方は愚かだから。貴方は弱いから。だから……死ぬと思ってたのに」
 そう言った彼女の眼には、身を切り裂く程の鋭さがあった。しかしそれでも、彼の心が揺れる事は無かった。揺らす事は、出来なかった。
 何かを答えようとして、けれど声にはならなかった。言葉という概念が消失した様であり、また発声に至る器官が封じられた様でもあった。ただ、彼女の視線を真っ直ぐに受け止めるだけ。彼女も、変わらぬ視線を向けて来る。其処に、何の変化も存在していなかった。
(何故死なないかなど、貴方が一番知っているでしょうに)
 心の中で、呟く。彼女に、それが届く事は無い。
(全てが自分の所為という事に、貴方は気付いていない。全ての元凶は貴方にある。貴方が、貴方の存在が、全てを狂わせているんだ)
 心中で連ねた本心は、矢張り声にならない。だが、今の言葉だけは例え言葉を発する事が出来たとしても、声に出す事は無いだろう。それを告げたが最後、恐らく命は無い。
 彼は、静かに目を伏せた。もう、何も受け付けないという意思表示をするかの様に。例えこのまま再び目を開く事が無かったとしても、それはそれで幸福かも知れない。
(長老……貴方のした事は、矢張り間違いだったのですよ)
 告げる。過去の存在となった者へと。もう届く事の無い、相手へと。
 そしてそのまま、漆黒の闇に身を委ねた。生きるか死ぬか、この際どちらでも構わない。
「寂しい人ね。貴方も」
 彼女の声が、闇の中をこだまして消えてゆく。
 そうして両目を開いた時には闇は全て消え失せ、平穏な自室が広がっていた。全てが幻の様に。

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