091:眠り *
setting from “Missing Dark”

 何が起こったのか、分からなかった。
 ただ一瞬の出来事。把握する時間さえも無いままに、気付けば闇に包まれた路地の上に大の字になって倒れていた。
 自分の身に、何が起きたのか。そして、自分がどうなったのか。それが何もかも分からない。思考が鈍って、動かない。まるで、錆び付いてしまったかの様に。自分の名前すらも覚えていない。そして、誰であったのかすらも、思い出せない。
 視界に移るのは薄暗い路地裏の闇。耳に届くのは遠く響く表通りの喧騒。切り取られた世界に、他の者が入って来る気配は無い。入って来る事が出来ない。
 ぼんやりと虚空を見つめた。灰色に染まった空が、建物の隙間から覗いている。
 何も考えたくなくて、何も考えられなくて。ただ視線の先を、真っ直ぐに見つめていた。
 身体が重い気がする。痛みは無いが、けれど何となく、死に近付いている様な気がしていた。あくまでも全ては推測。今の状況を把握する能力すら失われていては、当然の事だった。
「これは罰なんだよ。キミは掟を破ったからね。開けてはいけない扉を、開けたから」
 不意に、声が聞こえた。何処か嬉しそうな、明るい声。無邪気でいて、それでいて恐ろしい程の冷たさが残る。声質は中性的で、男女の別が分からない声だった。この声に聞き覚えは、無い筈だ。
 ――――誰だ。
 そう問おうとしたが、声にならなかった。声の出し方を忘れてしまったかの様に、喉は何の音も生み出さない。
 それすらも嬉しそうに、声は言葉を紡ぎ続ける。
「分かっていた筈なのにね……扉を開ければどうなるのか。なのに開けたのは、キミの責任だよ。だから、これは自業自得。他の誰のせいでも無い。悪いのは、全部キミ。そうだよね?」
 虚ろな瞳に映ったのは、幼い子供の姿。声と同じ、中性的な容姿だった。
 それは無邪気に笑い、こちらを覗き込んで来る。顔に浮かべた表情は明らかに笑みだというのに、けれど笑顔だという感覚を起こさせない。瞳の奥に宿るのは、冷え切った軽蔑の眼差し。
 扉……掟……罰。先刻から耳に残る、意味あり気な言葉達。それの持つ意味を、凍った頭は一切理解出来ない。そう言われる所以が分からない。記憶が無い。
 笑顔で紡ぐ言葉にしては、暗く重い単語ばかり。その奇妙な違和感に、不快な感情を覚えた。十かそこらの子供が口にする様な言葉では無いはずだ。ましてや、笑顔で言う言葉でも無い。
 子供はこちらを暫く眺めた後、不快そうに眉を顰めた。
「何だ、もう記憶飛んだわけ? つまんない」
 呟きと共に、笑顔が消える。そこに残ったのは、冷ややかな視線のみ。
「忘れた方がいいのか、覚えてた方がいいのか、どっちが幸せなのかは分からないけど……まぁ、諦めてよね。どっちにしても、キミはもうすぐ死ぬんだからさ、関係ないよね」
 死ぬ? 誰が――――自分が? やはり、あの予感は本当だったのか。
 しかし、何故。その理由が分からない。
「どうせ死ぬんだから、理由なんて要らないでしょ? そんなの考えるだけ無駄、知るだけ無駄」
 こちらの思考を読んだかの様に、子供は言う。
 実際、文字通り心を読んだのかも知れない。そう思える何かが、その子供にはあった。
 恐怖は、無かった。あったのは、ただ疑問だけ。しかしそれを問う事が、出来ない。
「全く、面倒だね。いいからさっさと死んでくれる?」
 不機嫌そうにそれだけ言うと、子供は片手を振り上げた。
「せいぜい悪足掻きするといいよ――――じゃあね」
 上げられた手が、一直線に振り下ろされる。その一言を最後に、記憶はぱったりと途切れた。
 それから先は、もう分からない。

* * *

「最悪だよ、ホント。今までの奴の中でも一番だね、全てにおいて気に入らない」
 右手の紅い雫を払い落としながら、少年はそう吐き捨てた。その傍らには、いつから居たのかひとりの青年の姿がある。細い瞳に感情が宿る事は無く、白銀の髪は漆黒の闇を吸って、深い色へと変色していた。
 その青年が、僅かな苛立ちを含んだ声で低く、言った。
「いつまでも何をしている。長居は無用だ」
「うん、分かってる。分かってるけどね。なぁんか納得がいかなくってさ」
「今更何を言っている。寧ろ、感謝すべきだと思うが?」
「ま、コイツのお陰で僕達はこうやって自由に出来るようになったんだしねぇ」
「――――」
「ハイハイ、感謝してますッ」
 諌める様な視線にたじろいで、少年は口を噤む。
 少年が大人しくなったのを確かめると、青年は踵を返した。
「……行くぞ」
「ほーい」
 少年は明るく返事を返し、再び背後に視線を遣った。命の消えた、儚き存在が瞳に映る。
「…………美しき死を」
 呟かれた言葉は、深い闇に吸い込まれて消えた。


 深い闇の夜の出来事。
 ひとりの若者が迎えた、最期の日。
 それは、まだ始まりに過ぎない。

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