097:迷い子 *
original setting

「まったく、しつこいわね!」
 苛立たしげに叫んで、倉科薫は走り出した。
 彼女の鍛え上げられた瞬発力と俊足に勝てる者など居ない筈であったが、残念ながら、相手が人ならざる者であってはその実力を発揮するまでには至らない。その事実を恨めしく思いながらも、薫は自分の足を信じて駆けた。
 殺気に似た鋭さを感じ、背中がちりちりと痛む。彼らに感情という物が存在するのかは、定かでは無い。しかし、自らを滅する者という認識くらいはあるのだろう。その強い意識を向けられるこの状況は、幾ら場数を踏んでいたとしても、到底慣れる事が無かった――――尤もそんな事になど、慣れたくも無いのだが。
 だが、そうも言ってはいられない。街の片隅にある小さな公園まで辿り着くと、薫は足を止めた。気配が追って来る事を確認して、今度こそ迎え撃つ準備を整える。
 目の前には、異形のモノ。
 元が人間であった事すらも疑いたくなる程に、かつての面影は無かった。ただ、肉の塊と成り果てた成れの果て。自身が何者であるかの記憶も無く、往く先も無く、この世に存在を抹消された、哀れな迷い子。今其処にあるのは、狂おしい程の生への執念。ただ、それだけだ。
 憐れな異形が、叫んだ。言葉さえも形作る事の無い、それは咆哮。何処か哀しげな色を纏った声は波動となって、張り詰めた空気を激しく振動させる。呼び起こされる激しい耳鳴りに、薫は身を固くした。頭の中までを揺さ振る様な奇妙な感覚は、意識を混濁させていく。その渦から逃れようと、薫は刀を握る手に力を込めた。鞘に収まったままのそれで、全てを凪ぎ払うが如く空を斬る。生んだ風圧は波動を相殺し、一瞬の静寂を呼び戻した。
 間髪入れず、薫は大地を蹴る。常人離れした跳躍力で異形の真上に躍り出ると、空中で抜刀し、鞘を頭上に投げ捨てた。そのまま両手で刀を握り、重力に従って頂点から叩き斬る。
 切り口から、光が溢れた。
 醜く崩れた異形の姿にはおよそ似つかわしくないその輝きは、浄化の証。刀が触れた部分から吹き出した煌めく白光は、次第に範囲を広めて身体を清らかな色に染め上げていく。
 大地に足を着けた薫は瞬時に後方へ跳び、落ちてくる鞘を確かに受け止めて刀を収めた。それは、計算されたかの様な早さと美しさだ。
 全身を純白の光に包んだ異形は、次の瞬間――――弾ける様に霧散した。
 もう、其処に残るモノは無い。あるとすれば、生きる事を熱望した強い意志があったという記憶だけだろう。だがそれも、他の誰かには知られる事無く消えていく。
「大丈夫。……きっと、また生まれ変われるよ」
 誰に言うとでもなく、呟く。

 ――――ありがとう。

 そんな声が、風に乗って聞こえた様な気がした。

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