She―彼女― *
「……ねえ。お腹空いた」
 直球に要求をぶつける彼女に、軽い返答を返す。こんな事は日常茶飯事で、すっかり慣れた。
「ねえ、聞いてる?」
「聞いてるよ。さっき返事したじゃないか」
「聞こえない。そんなの言ったうちに入らないわ」
 自分が大好きで大切な彼女は、譲る事を知らない。それも、彼女の生い立ちを思えば仕方ないとは思うが、やはり限度は必要だと思う。そんな思いとは裏腹に、彼女はひたすら自分の意見を貫き通す。周囲の事などお構い無しに。
「どーでもいいから、早く何か作って。このままじゃ飢え死にするわ」
 まずそれは絶対に有り得無い。そう思ったが、胸の内にしまっておく事にした。大体、しっかり朝食を摂ったのだ。それも二時間前に。どういう胃袋をしているのか、知りたい。
「ねーえー、早く!」
「分かった、分かったから大人しくして」
 ゆったりサイズのソファから立ち上がろうとして、眉を顰める。ワザとなのか無意識なのか。
「……アリィ。早くして欲しいのして欲しくないの、どっち?」
「決まってるじゃない。何当たり前の事聞いてるの」
 その割にがっしり抱きついて離れないのは何故だろうか。嫌がらせのつもりなら質が悪い。
「離れてくれないと、何も出来ないんだけど」
「嫌」
 キッパリ言いながら、抱きつく腕に力を込める。この我が儘なお嬢さんは、彼氏である僕がとにかく大好きで、とにかく傍に居たいのだと口癖の様に言う。そりゃ好かれている分には嬉しいけれど、素直に喜べないのは悲しい。
 ――――彼女の率直だが強引な愛情表現に、いつも困惑を隠せないから。
 けれど実の所、僕自身も彼女が好きなので、それ以上は何も言えない。我が儘な所も、自己中な所も、全部ひっくるめて彼女が好きなのだ。どう考えても、やっぱり同じ結論に戻って来てしまう。最近では、我が儘を言われても可愛いと思えてしまうのが否めない。恋は盲目、とは良く言ったものだ。
 どうしても離れないので、仕方無く立ち上がる。倣って、彼女も立ち上がった――――抱き付いた腕を離さないまま。
「そのままでも文句は言わないから、邪魔はしないでね?」
「はーい」
 明るく可愛い返事。何故だろう、素直な返事を聞いただけで許せてしまう気がする。
 どうやら、自身で思っている以上に惚れ込んでいるらしかった。


 何でも人任せな彼女は、勿論自分で料理を作ったりはしない。となると、自然とその役目がこちらに回ってくる。もともと料理は嫌いではなかったし、幸い下手ではなかった。それに、やっぱり美味しそうに食べる彼女を見るのが嬉しいというか何というか。だから、苦にはならない。それが、せめてもの救いだろう。
 すっかり慣れた手つきで食材が切られていく様を、彼女は凝視している。相変わらずくっついたままだが、邪魔はしないという約束は忠実に守って大人しい。これも初めての事じゃないから、もう気にもならなくなりつつある。
「アリィ、塩取ってくれる?」
「ん」
 こんなお願いならば、流石の彼女も快く受けてくれる。たぶん、自分の空腹を早く満たしたいからなんだろうけど。でも事実、ありがたい。そんな彼女の為に、作業スピードを上げた。切った具材を油を引いたフライパンの中へ放り込む。ジュウジュウと音を立てて、野菜達に火が通っていく。余っていたご飯もそのまま一緒に混ぜた。
 完成につれて、フライパンの中から良い匂いが漂い始める。彼女が嬉しそうに身を乗り出し、今日の昼食に瞳を輝かせた。どうやら気に入って貰えた様だ。手際良く皿に盛り付けて、完成。今はとりあえず、彼女の分だけだ。
 出来たての料理を目の前に、漸く彼女が離れた。嬉々として皿を手にし、リビングへと舞い戻る。今の彼女の頭の中は、僕の事なんかより昼ご飯の事でいっぱいだろう。
「アリィ、飲み物は?」
「んー、ミルクでいいっ」
 半ば不明瞭な発音から察するに、既に食べ始めたらしい。よっぽどお腹が空いていたのだろう。なんて考えながら、洗ってあったコップにリクエストのミルクを注ぐ。大体九分目が、彼女の好み。
 コップを手に戻ると、既に皿は空になっていた。何という速さ。そのスピードは驚嘆に値する。
「ご飯、足りた?」
「ん、バッチリ。やっぱステフの料理は最高!」
 差し出したコップを手に取り、ぐびっと飲み干す。
 その表情は満足そのもので、こっちまで嬉しくなってくる様な、そんな笑顔。
「……ありがとね」
 はにかむ様な表情で、ぽつりと漏らす。いつも強引で迷惑をかける天才の彼女が、たまに見せる素直な顔。それが一番好きなのだと言ったら、彼女はどう反応するのだろうか。
「どういたしまして」
 反応を返すと、彼女はまるで酸っぱいモノでも食べたかの様な顔をした。疑問に思ったのも束の間、彼女は勢い良く飛び付いてくる。避ける間なんて、無かった。
「大好きッ!」
 足にタックルされる様な形で、その突発的な力の付加に重心が揺らいだ。そのまま後方に身体が傾ぎ、尻餅をつく。
「った……」
 盛大に身体をぶつけたこちらに構う訳もなく、彼女はまたしても強く抱き付いてきた。
「アリィ。お皿、片付けないと」
「そんなの後で出来るでしょ。今はこうしていたいの」
 それこそ後で出来るだろうとか、さっきもくっついていたじゃないかとか、言いたい事は幾つも浮かんでくるけれど、言葉にはならなかった。ただ、溜息をひとつ。そうして名前を呼ぶ。
「……アリィ」
 諭す様な声音に気付いたのか、彼女はするりと腕を解いた。戸惑う様に視線を点々とさせて、落ち着かない。
「だって、だって……」
 そう呟く声が、震えている。彼女がそうなる理由は、分かっていた。
 彼女――――アリシアとは、三年程前に出会った。細い路地道で。それは、幸いだったのかも知れない。彼女はぼろぼろの格好で、路地に横たわっていた。偶然に目が止まって、驚くと同時に慌てて駆け寄った。意識は朦朧としかけていたけど、命に別状は無かった。だからといってそのままにしておく訳にもいかず、彼女を連れて帰った。
 それが、始まり。
 あの場に倒れていた事を、彼女はあまり話したがらなかった。だから無理に訊く事はしなかったが、簡単な説明はしてくれた。生まれ故郷が災害に遭い、家と家族を亡くしたこと。様々な土地を巡り、ここまでやって来たこと。そして疲れ果てて、倒れたということ。他に行く宛ても無いと言うので、一緒に住んではどうかと尋ねてみた。彼女は思った以上に素直に、首を縦に振った。そうして三年の月日が巡り、今に至るのだ。
 今思えば、その時点で既に好意を寄せ合っていたのだろうと思う。一目惚れなんていう大層なものでは無く、ほんの些細な感情で、無意識に。そうでなければ、同居の提案も承諾も無かっただろうから。果たして、これを運命と呼ぶ事が出来るのだろうか。それは分からないが、互いに幸せな生活を得る事が出来たのは事実だ。
 だからこそ、彼女はひとりになるのを恐れる。手を離そうとしないのは、置いていかれたくない、という心の表れではないかと思うのだ。――――あくまでも推測だけれども。
「大丈夫。何処にも行かないから、ね?」
「あう……」
 優しく、宥める様に言ってあげると、彼女は渋々といった体ながらも納得する素振りを見せた。その態度に安心して、さっさと食器を片付ける。家事の素早さは、こういう時に役立っていると思う。それもこれも、彼女の存在があったからなのだが。彼女のお陰と言うか、彼女の為と言うかは微妙な所。けれど彼女が居なければ成り立たない事実だ。
 戻ると、待ち侘びた彼女が手を伸ばしてきた。素直に抱き付かれる。彼女は満足そうだ。
 いつまでこの幸せな日々が続くのかは分からないが、願わくば少しでも長く過ごせる様に。
 彼女の温もりを感じながら、ただひたすらそう願った。

【 b a c k 】