第23話 此処から、もう一度


 何処か控えめなノックの音に、リィアは顔を上げた。
「どうぞ」
 扉の向こうへ声を掛けるとノブが遠慮がちに回り、ゆっくりと扉が開く。姿を見せたのは、紅瑛であった。いつになく落ち着かない様子で視線を彷徨わせると、躊躇う様に問いを口にする。
「…………入っても、良いか?」
 普段はそんな断りを入れる事無く入ってくるのに。そう思ったが、胸の内に留めておいた。
 いつにない彼の態度の理由は、凡そ察しが付いている。異国の王子だなんて身の上を明かされて確かに驚きはしたが、其処まで気にする事でも無いと思うのだが。しかし紅瑛にとっては、今まで素性を伏せていた事を後ろめたく感じるに充分な出来事だったのだろう。
「いいよ。急ぎの物は特に無いし」
 言いながら、リィアは手にしていた書類をファイルに閉じた。
 団長と呼ばれる立場には未だ慣れないが、気持ちがどうであれ、事実としてやらなければならない事は多い。メアリを筆頭に状況を理解している団員達が出来る範囲で手伝ってくれてはいるが、明確な引き継ぎが出来ないままにトップに収まる事となってしまったリィアにとって、団の仕事はまだまだ分からない事ばかりであった。書類の整理などはその最たる物だ。気付けば増える紙の束に、リィアは父の偉大さを思い知る。たったひとりで、多くの団員達を導き、支える事がどれだけ大変なのか。ふとした瞬間にそれを思うと、重圧に負けそうになる。それを堪え、リィアは何でもない風を装った。
 紅瑛はリィアの座るデスクの傍にまでやって来ると、真っ直ぐに彼女を見据える。自然と見上げる格好になって、リィアは動揺した。普段の身長差を思えば、然して変わらぬ視界の筈なのに。いつも隣に立つ彼を見上げている筈なのに。何故、こうも心が掻き乱される様な感覚に陥るのだろう。
 それを悟られないよう、リィアは必死に平静を装う。
「それで、どうかした? いつになく畏まっちゃってさ」
「まぁ、その……な。改めて、ちゃんと話しておかなきゃとか、思って。一応」
 リィアの心中など知ってか知らでか、応じる紅瑛の歯切れは悪い。自分以上に緊張した人間を見ると自身の緊張は解れると言うが、その通りなのだろう。普段はのほほんと穏やかに構えている彼の困惑する姿に、気付けばリィアは自身の抱えていた戸惑いを拭い去る事が出来ていた。
「話……って言っても、昼間に大体の事は聞いたと思うけど」
「それは、確かにそうだけど。でも流れで色々伝わっただけで、自分の言葉では、ちゃんと伝えてなかったなって思ってさ。此処で筋通しておかないといけない様な気がして。それで、来たんだ」
「うん。ありがと。そう思ってくれただけでも、嬉しいよ」
 矢張り根が真面目なのだろう。律儀とでも言うべきか。
「取り敢えず、座ったら? 私もそっちに行くし」
 リィアはさり気無く、執務室に設えてある来客用のソファへ座る事を促す。ほぼ同じ視線の高さで向き合った方が良いのではないかと考えたのだが、紅瑛は首を振った。
「いや、このままで良い。簡潔に済ませるし、時間も取らせないから」
「そう? なら良いけど……」
 当てが外れたリィアは、このまま見上げるのかと内心無念に思ったが、顔には出さずに頷いた。未だ拭えずにいる動揺を悟られない様にするには、どうしたものか。纏まらない頭でそんな事を考えていると、不意に紅瑛が深く頭を下げた。
「悪かった。ずっと、言えなくて」
 率直であり、余計な言葉を取り払った真っ直ぐな謝罪。真摯な思いに満ちたそれに、リィアは何も言う事が出来なかった。彼が真実を隠そうとしていた訳では無い事くらい、リィアも分かっている。状況が、環境が、その機会を奪っていった。それを、どうして責める事が出来ようか。
「騙そうとか、そんな風に思った事は一度だって無かった。でも、どう説明して良いのか分からなくて」
「大丈夫。分かってる」
 彷徨っていた視線が、リィアに定まった。その言葉を探し求めていたかの様に、表情に希望が滲む。リィアはもう一度、ハッキリとした口調で繰り返した。
「ちゃんと、分かってるよ。この数年、隣で見て来たもん。私だって少しくらいは紅瑛の事、理解してるつもりなんだから。……驕りかも知れないけど」
「そんな事、無いさ」
 静かに、紅瑛が呟いた。受け取った言葉の意味を噛み締める様に、目を伏せる。
「有り難かったんだ。素性なんて関係なく、俺自身を、ひとりの人間として受け入れてくれた事が。此処に居て良いんだ、って言って貰えている様で……嬉しかったんだ。だからこそ、こういう事態になる前に自分から本当の事を言うべきだった。今は、そんな不甲斐ない自分に腹が立つよ」
 珍しく苛立ちの感情を滲ませて、紅瑛が言う。それに、リィアは首を振った。
「そんな事無いよ。私ね、別に素性を知らなくても良いやって思ってたんだ。何処の誰であろうと、此処に居る紅瑛は紅瑛なんだし。だから、私は何も気にしてない。紅瑛が、そうやって自分を責める必要は何処にも無いよ。私だけじゃない、ハクロも、メアリも、他の皆もきっとそう。同じ風に言うと思うな」
 それは、心からの本心だ。そして事実であると、リィアは信じている。
 団内の人間は、揃いも揃ってお人好しばかりだ。同じ仲間として過ごして来たこの数年の間、異国からやって来た青年の素性を問う者は誰ひとりとして居なかった。それが答えだろう。彼らは一個人としての紅瑛を尊重していた。ただ、それだけの話。
「だから、謝るとか、そういう話はもうおしまい。紅瑛が誰であっても、例え王子様だとしても、そんなの関係無い。此処に居る間は、誰でも無いただの紅瑛。そうでしょう?」
「……そうだな。でも、ちゃんと言っておきたかったんだ。それよりも身の上話って言うか……自分の事、改めて知って貰えたらって思って。勝手だとは思うけど」
「そんな事、無いよ。私も聞きたいし。紅瑛の、昔のこと」
 真っ直ぐに、見上げる。照れ臭さも、動揺も、気付けば消えていた。
「勿論、今すぐに全部説明しろなんて言わないよ。少しずつで良いから、教えて欲しいな」
「分かった。此処から改めて、始めさせてくれ。此処の一員としてもう一度、スタートさせたい」
「うん、此処が新しい一歩目だね。だから、これからも宜しく。これでも私、頼りにしてるんだからね」
「それなら、最初の仕事として手伝うよ。書類の整理」
「え」
 予想していなかった言葉に、リィアは思わず手元のファイルに視線を落とした。
 スムーズに処理出来ている風を装っていたつもりなのだが、その実態は筒抜けだったという事だろうか。メアリが状況を把握している時点で、想定出来た事なのかも知れないが。どちらにしても残念ながら、出来る団長を演じるには、まだ経験値が足りない様だ。書類の整理に苦労しているのは本当なので、しぶしぶリィアは頷く。見栄を張って余計な苦労をするより、大人しく助力を乞う方が何倍も良い。
「……えっと、宜しくお願いします……」
 こんな筈では無かったのだけれど。
 そんな事を思いながら、リィアはファイルの横に積み上がった書類の束を差し出すのだった。


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