第1話 突然の異動命令


「ちょっと待って、こんなの聞いてない!」
 目の前に差し出された資料に目を通した瞬間、衝撃が身体を走り抜けた。何の冗談だ、と思わずにはいられない。自然と、悲鳴にも似た声が唇から音を発していた。
 その心中に浮かぶのは焦燥なのか、それとも恐怖なのか。正直な所、それは自分自身でも分からなかった。どの様な意図による物なのか、それが明確では無い今では全て推測に過ぎない。しかし少なくとも、それが期待という感情を呼び起こす事は難しいだろう。
 確かに、資料の詳細は彼女にとってある意味では有り難い報告だった。けれど個人としての感情を問われれば、歓迎にはほど遠いと言えよう。だがこれは、どうしようもない事実。今更何を喚き立てた所で、変わる事など無いのだ。それは、自身が一番良く分かっていた。
「私も驚いてるわ。こんなに唐突な命令があるのかしら、ってね」
「そんなの、今に始まった事じゃない。あの人のやりそうな事だもの」
「そう? 私にはそうは思えないのだけど……でも、貴方がそう思うのなら、そうなんでしょう」
 複雑な事情を唯一知る存在の彼女は、迷いなく自身の意見を捻じ曲げた。
 正確に言うのならば、あくまでも言葉上で此方に合わせただけ。恐らく本心は、最初に告げた通り否定の意見なのだろう。そう判断する理由は分からないが、今は其処を追究している場合では無い。これから短時間でやらねばならない事が山積みなのだ。
「ま、何だって良いわ。とうとう邪魔者を片付ける準備に入った、って事は分かったから」
「それはどうかしら。断定してしまうには、まだ早急じゃない?」
 自嘲気味に呟くと、諫める様な声が返って来た。悉く意見を否定されている。
「だったら何だって言うの。どう見たってコレは向こうが本気だって事でしょう」
「確かに一見すればそう見えるかも知れない。でもそれは、貴方の出した勝手な結論。真実は、別の所に潜んでいるかも知れない。用心するに越した事は無いけれど、他の選択肢も用意しておかないと見える物も見えなくなってしまうわよ」
「……何が言いたいの」
「考えすぎは良くない、って事よ。貴方らしさを大切にしなさい」
「あたしらしさ、ねえ」
 頬杖をついて、資料に再び視線を落とす。矢張り不安は拭えないが、逃げる事は許されない。ならば、覚悟を決めて事前に対策を講じておくだけだ。
「せいぜい手厚く歓迎してやりましょうか」
「その調子よ。私も出来る限りの協力はするから。頑張りましょう」
「――――そうね。やるしかないのなら、やってみせるまでよ」
 その胸に静かな決意の炎を燃やして、自分に言い聞かせる様に呟いた。

*

 それは何の前触れもなく、唐突に起こった。
「ちょっと、話があるんだが」
「はい。何でしょうか」
 不意に声を掛けられて、廉紅 ( リェン・ホン ) は振り向いた。
 背後には、直属の上司にあたる経理課長が立っている。彼の補佐を担当しているリェンは仕事柄、彼に呼ばれる事が多い。いつも突然呼び掛けて来るので驚くのだが、内容はだいたい同じ事だ。大して気にも留めず返答を待つと、予想外の言葉が返って来た。
「……此処じゃあ、何だな。今、手を離せるか?」
「ええ、大丈夫ですが」
 何処か辺りを気にした風の課長の態度に、リェンは疑問を抱く。通常の仕事に関する話題では無いという事だろうか。そんな事を考えながら、リェンは手招きされるがままデスクから離れた。
「それでだな、話っていうのが」
 経理課のある部屋を出て小さな休憩スペースまでやって来ると、課長は何処か言い辛そうにそう切り出した。リェンはただ、無言で次の言葉を待つ。
「君に異動命が下った。突然の事で、私も戸惑っているんだが」
 発せられた言葉に、衝撃を覚えた。
 真面目に仕事に励んでいた筈だ。そう、自信を持って言える。異動命が下る様な重大ミスをした覚えなどないし、素行にも問題はないと言い切れる。なのに何故。
「課長、どうして」
「さあな、私には分からんよ。理由までは知らされていなくてな。少なくとも、仕事の不出来で飛ばされる訳では無いと思うがね。君の仕事振りは、良く知っているつもりだから」
「ありがとうございます」
 それを聞いて、ほんの僅かに安堵した。
「詳しくは自分で聞いてこい。社長がお待ちだ」
「社長が、ですか?」
 何故、という疑問は呑み込んだ。移動理由を知らない彼が、その答えを知る筈も無いだろう。
「あぁ、何でも社長ご自身の意図らしいが……」
 答えて、課長はふと寂しそうに表情を歪めた。
「本当に残念だよ。君のような有能な部下が去ってしまうというのはね。だが、有意義な時間を過ごさせて貰った。感謝するよ」
「……恐縮です」
 その言葉が、有り難かった。そして同時に、嬉しくもあった。自分が如何に大切に思われていたかを、改めて実感する。確かに、必要とされていた。それが何よりもの幸福だ。
「さ、行ってきなさい」
 促す様に、課長は肩に手を置く。小さく頷いて、リェンは長く延びる廊下を進んでいった。


 平凡な外界を遮断する様な大きく重い扉を前にして、リェンは気を鎮める様に息を吐く。
(禁に触れる事もしていないし、規約に反する事もしていない筈だけれど――――)
 理由を何度か考えようとしたが、その都度挫折した。しかし此処まで来てしまえばそれも無駄な事だと覚悟を決めて、重厚な扉をノックする。返答はすぐにあった。
「入りたまえ」
「……失礼致します」
 両開きの扉の、片側をそっと開けた。予想に違わず、ずっしりとした重みが腕に掛かる。お世辞にも腕力があるとは言えないリェンにとって、それには予想以上の力を要した。
 部屋の中央には接客用と思われるテーブルと椅子。テーブルは天然の材木を使った特級品で、椅子も革張りの高価なものだ。窓辺には業務用のデスクが置かれていたが、それもリェン達の様に安価な物では無い。椅子も広い背凭れと肘掛がついた、豪華仕様である。
「すまなかったね、呼び出しなどして」
 柔らかな声が響いた。無意識に周囲を観察していたリェンは、部屋の奥に佇む部屋の主へと視線を向ける。大きく縁取られた窓から眩しい程の光を浴びて、彼は静かに微笑んでいた。
 ――――李力 ( リー・リー ) 。この会社、李公司 ( リーカンパニー ) を統括する若き社長だ。まだ三十代後半という年齢ではあるが、その有能な指揮には絶賛の声が上がる程の実力者として、世間からも注目を浴びている。
 そんな彼に、権力者特有の驕慢や醜悪なものは見受けられない。映画スターの様だと形容される整った顔立ちには、温かみのある表情ばかりが浮かんでいる。多少威厳には欠けているが、若くして地位を手に入れたカリスマ性と言うべき力が存在するのだろう。
「突然の事でさぞかし驚いただろう?」
「……いえ」
 素直に肯定する訳にもいかず、リェンは短い否定だけを音にした。そうして扉を閉めると、外界から隔離された様な錯覚を覚える。
「話は、聞いているね?」
「はい。異動命が下ったと、聞きました」
 リェンの返答に、若社長は安堵する様な笑みを漏らした。
「その通りだ。君に、是非頼みがある」
「頼み、ですか?」
「そうだ。これは、社長としてではなく私の個人的な頼みだ。不都合があるならば、断っても構わない。無論、だからといって処分を言い渡す事など無いよ。あくまでも、これは個人の依頼だからね。君には拒否権がある」
 リェンは戸惑う様に、視線を彷徨わせる。ごく普通の平社員に対して社長自らが個人的な頼みを託すなど、一般的に考えれば有り得ない事態だろう。
 だがそれは、普通であるならばの話だ。
「その、依頼というのは何なのでしょうか」
「それについては資料に纏めておいた。その全てに目を通し、内容を確かに理解した後はこの書類を確実に破棄して欲しい。……受け取っては貰えるだろう?」
「えぇ、勿論です」
 彼の傍へと歩み寄り、差し出された書類を受取る。僅か数枚程度の、簡易書類だ。
「返事はいつでも構わんよ。但し、君の意志が確かに固まってからにして貰いたい」
「ならば、今お返事を返させて頂きます」
 早すぎる言葉に、リーが驚いた様子で視線を投げた。それを受け止めて、返答する。
「お受けします」
「……そうか。こんなに早く返事が返って来るとは、思っていなかったよ」
 予想外だった、とリーは笑う。流石の彼も、資料に目も通さず頷くとは考えていなかった様だ。
「では、今後の君の所属先は特別執行課になり、経理課名簿から外される事になる。今の生活に戻れなくなるが、それでも受けてくれるかい?」
「はい。それが、貴方と交わした約束ですから」
「有り難い。それと同時に、すまないと思うよ。穏やかな生活を壊す様な真似をしてしまって」
「いずれこんな日が来るのではないかと、そう思ってました。その日がやって来ただけの事です」
 覚悟を決めた真っ直ぐな視線を受けて、リーはただ、そうか、と呟くだけだった。


 事件というものは突如として動き出すのである。
 何の前触れも無く、けれど過ぎ去った時には大きな「何か」を残して。
 かくして事件は、物語として動き出す。


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