第2話 上司とパンダ


 ビル街の隙間は、灰色の世界だ。
 競い合うかの様に高く聳え立つビル群は、大きな壁となって日光を遮断する。光は届かず、影ばかりとなった路地は冷たい壁に囲まれているばかり。そうして其処は、灰色の世界を確立する。温かみの欠片も無いその光景は、無機質な空間と成り果てていた。
 見上げれば、青い空と白い雲。其処だけを切り取れば清々しい物だが、灰色の箱に閉じ込められたかの様な現在地から見るとまるで額に嵌め込まれた絵画を眺めている様だ。偽物の空であるかの様な、錯覚を覚える。だがそれも晴天であるが故の事で、暗鬱とした空模様となれば四方八方が同色に調和して、閉塞感すら覚える空気を醸し出す。それはさながら、蓋を閉められた箱の中に閉じ込められる感覚に近かった。今日が快晴である事に安堵して、リェンは辺りを見回す。
 彼の周囲には、人らしき姿が見当たらなかった。部署異動が確定したのち、追加で貰った資料に記載された日時に不備はない筈だ。そして場所も、間違ってはいない筈だった。遅れてはいけないと早めに到着はしたが、それでも辺りを包む静寂には不安を覚える。
 町の中心部であるが故に表通りはある程度の平和が約束されているが、裏道に入ってしまえば確約は出来ない。それでも郊外の比では無い程にこの辺りは穏やかであるが。それでも、妙な不安感を覚えてしまうのは仕方の無い事であった。
 そもそも、何故こんな場所を待ち合わせ場所に指定したのか。理解に苦しむ。
 まだ見ぬ来訪者を思いながら、小さな溜息を吐くと。
「溜息を吐くと、幸せが逃げていくのよ?」
「…………ッ!?」
 唐突に背後から声がして、リェンは思わず飛び退った。
 声の正体を確かめようと視線を動かしたその先には、少女の姿。齢は十を少し越えたくらいだろうか。髪はきっちりと頭の上方で纏められ、衣服も装飾具もそれなりのものだ。少なくとも、周辺のスラムにも似た界隈で暮らしている訳では無いだろう。荒廃したこの地には似付かわしくない、純粋で大きな瞳が、真っ直ぐにリェンを見詰めている。
「見た目に反して反応が早いのね。これなら、良い戦力になってくれそう」
「……君、は」
「ご挨拶が遅れまして申し訳ございません。私は美天岐 ( メイ・ティエンチー ) と申します。失礼ですが、貴方はリェン・ホンさんで間違いありませんか?」
   丁寧に名乗りを上げる声は、まだ幼い少女の物だ。ひどい違和感に襲われる。
「――――ええ、はい。確かに、僕がリェン・ホンですが」
   肯定の言葉を確認すると、少女はにっこりと微笑んで一礼した。
「改めまして申し上げます。私はリー・カンパニー特殊部特別執行課総本部総合責任者、メイ・ティエンチーと申します。以後、お見知り置きを」
 長い肩書きをすらすらと語るその姿は、見た目に全くそぐわない。押し寄せる奇妙な感覚に、リェンは眉を寄せた。長々した役職名にも混乱しそうになったが、結局重要なのは最後だ。
 特別執行課の、総合責任者。という事は即ち。
「貴女が……僕、いや、私の上司?」
「ご名答! 物分かりが良い人で助かるーっ」
 年相応の笑顔で、少女は頷いた。対してリェンの困惑は深まるばかりだ。
 異動先に関する資料は、多くなかった。それ故に様々な推察もしていたのだが、流石にこれは予想外の範疇だ。自分の歳の半分程度の少女が上司だなんて、理解のレベルを超えている。何かの冗談だと笑い飛ばせたら、どれだけ良いか。
「一応訊きたい……の、ですが。本当に、貴女が?」
「ホントよ。気持ちは分かるけど、常識に囚われすぎるのが大人の悪い所ね」
「そんな事を言われても……流石に、これは……」
 ――――無理という物では無いだろうか。
 此方の戸惑いを読み取ったのだろう、彼女は困った様に笑った。
「ま、普通に考えたら納得のいかない事よね。いきなり小娘が出て来て上司なんて馬鹿な話を信じろ、って言うんですもの。そんなの無理だって、あたしもそれは分かってるつもりよ。でも、残念ながら事実なの。だから納得しなくても良いから、受け止めては欲しいな。一応、これが証拠」
 少女が一枚のカードを差し出す。恐る恐る受け取ると、それは彼女の社員証であった。
「偽造とか疑うって言うならそれでも良いけど、取り敢えずは一緒に来て欲しいな。ずっと此処で話をする訳にもいかないから。後は会社で、ちゃんと納得いくまで話し合いましょ?」
 そう言う彼女の表情が何処か寂しそうに見えて、リェンは別の意味で困惑する。そんな顔をさせたい訳では無い。確かに驚きはしたが、否定をしたい訳では無いのだから。
 提示された社員証は、正式な物だった。その周到な用意に、彼女の思いが見て取れる。相手方が此方の情報を全く知らないという事は無いだろうが、それでも否定される可能性を恐れて証拠となる品を用意していたのだろう。それを出させてしまった事を、後悔した。
「……これが本物だという事は分かります。突然の事で少々驚いてしまいましたが、貴女が私の上司である事は確かに把握致しました。ご無礼を、お詫び申し上げます」
「納得、してくれるの?」
「ええ。勿論」
 頷いてみせると、少女は僅かに驚いた顔をした。しかしそれもすぐに引っ込めて、彼女は笑う。
「そう。なら良かった! 安心したわ」
 強い子だと、直感的にそう思う。少なくとも、見た目の幼さよりはずっと聡い子だ。責任者としての立場がそうさせるのか、それとも性格故に与えられた立場なのか。どちらが先かは現時点でのリェンに知る術は無いが、恐らくなるべくしてなったのだろう。
「そうそう、最初にコレ言っとかなきゃね!」
 思い出した様に言って、少女はぱちん、と両の掌を合わせる。
「あたしの事はメイ、って呼んで。あたしはリェン、って呼ぶから。あと、敬語は禁止ね。堅苦しいのは、好きじゃないの。貴方だって、子供を相手に敬語じゃ、やり辛いでしょう?」
「…………分かった」
 リェンは、戸惑いつつも素直に頷いた。メイは満足そうに笑って、話を纏める。
「それじゃあ、まずは会社に行きましょ。案内するわ」
「あぁ――――あ、いや、ちょっと待って欲しい」
 踵を返したメイを、慌てて呼び止める。立ち止まった彼女は振り返ると、首を傾げた。
「なに? 今更ウチに来ないとかは無しよ?」
「それは無い、大丈夫。ただ……その、特別執行課について教えて欲しいんだ。貰った資料には業務に関する詳細は記載されていなかったから、あまりにも情報が少なくて。何をするのかまったく分かっていないんだ。結局のところ、特別執行課というのは何なんだい?」
「うーん、そうねえ……」
 考え込む様に腕を組み、メイは首を捻る。そんなに答えるのが難しいのだろうか。
「ウチの仕事に明確な区分けは無いのよね。名目上は本社のバックアップだから、一般事務の手伝いから幹部の護衛まで、内容は多岐に渡るわ。頭を使う仕事もあれば、体を張る仕事もあるって感じ。ま、分かりやすく言うなら雑用係ね」
「雑用係……」
「そ。だから覚悟しておいてよ? どんな仕事が舞い込んで来るかは分からないんだから」
 屈託の無い笑顔で言われた言葉に、リェンは身震いした。特別執行課に於いて、文武両道を必須とされる事は間違いない。今までの穏やかな日々が、遠く霞んで見えた。
「他に訊きたい事があったら答えるわ。でも、移動中にね。時間が無いから」
「あぁ、ごめん。引き留めて」
「良いのよ、こっちの事情で急かしてるんだもの。じゃ、行きましょ」
 今度こそ頷いて、リェンはメイの後に続いて路地を出た。
 光を遮っていた路地を抜けると、先刻までの陰りが嘘の様な日差しに襲われる。眩しさにリェンは目を細め、目を覆った。その視界の隅に映る大きな何かに気付き、視線を動かす。そうして。
「…………な」
 言葉を失った。一方メイは、全く意に介していない様子で駆け寄る。
 それは、白と黒の色彩を纏った大きな塊――――パンダ、だった。それも、通常よりも倍近くある体躯の。それに抱き付きながら、メイはコミュニケーションを取っている様だった。
「一飛 ( イーフェイ ) 、お待たせ。帰るよ!」
「え、帰るって……いやそれ以前に何で、パンダ……」
「あたしのペット兼相棒。そんでもって移動手段。それがこのイーフェイよ」
 一体何をどうしたらこのサイズのパンダが生まれるのだろうか。その疑問は尤もであったが、問い掛ける事は憚られた。そういう種類のパンダが存在するとは聞いた事も無いが、実際に目の前に居るのだからまずは受け止める他無い。
 そのパンダことイーフェイは、一見すると狂暴そうな雰囲気を纏っていた。その通常を超えた身体のサイズも勿論だが、右目に残る十字傷が荒々しさを物語る様で、リェンは戸惑う。しかしペット兼相棒と言い切るだけの事はあって、メイとは友好的な関係を築いている様だった。
 ――――リェンに懐いてくれるかは、別だが。
「イーフェイ、この人はリェン。今日から、あたしの部下になってくれる人よ」
 メイは真っ直ぐな相貌でイーフェイを見つめ、そう言って聞かせた。その言葉を解しているかの様に、イーフェイは頷く様な素振りを見せる。
「まさか。人の言葉が分かる、のか?」
「そうよ。凄いでしょ? 自慢の相棒なのよ」
 自慢気に胸を張って、メイは言った。そして整えられた毛並みを持つ背を、ぽんぽんと叩く。
「さ、乗って」
「え? 乗る? パンダに?」
「決まってるじゃない。さっきも言ったでしょ、イーフェイはあたしの移動手段だって」
 拗ねる様に、メイが説明する。確かにそう称していたのはリェンも把握しているが、まさか自分に向かって言われるとは思っていなかったのだ。メイならば間違いなく軽い。彼女ひとり乗ったくらいで、イーフェイは苦にすら感じないだろう。しかしリェンの重みが加わるかと思うと、躊躇いが生まれるのは仕方の無い事では無いだろうか。パンダに乗った事など無いのだから。
「大丈夫よ。貴方ひとり乗った所で、イーフェイの移動には何の支障も無いから」
「……はぁ」
「ほら、早く! 時間が無いって言ったでしょう?」
 そう急かすメイはいつの間にやら、イーフェイの上に乗っていた。どう足掻いても、他の選択肢は与えられないのだろう。リェンは覚悟を決めて、従う事にした。思い切って触れると、思いの外柔らかな感触に驚く。意を決して後方に乗ると、それを確認したメイが天高く指を差して宣言した。
「よし、出発よ!」
 そうして高らかな声と共に、一風変わった「乗り物」がゆっくりと動き始めた。


BACKTOPNEXT