第11話 内緒の真実


 物心付いた時には、既に独りだった。そうなるに至った過程など、最早欠片も記憶に残っていない。当初の頃は何度か思い出そうと試みた事はあったが、無駄だと悟って以降は一度も過去を振り返る事無く生きて来た。そんな事をしている余裕など、当時のリェンには無かったからだ。過去など、辿って来た過程に過ぎない。重要なのは、今後をどう生き延びていくかだ。
 その町は酷く荒れ果てていて、マトモな暮らしが出来る人間など皆無に等しかった。治安のレベルは最下層。行政の目も届かぬ暗闇の土地では、生きてゆく為に罪を重ねる事が当たり前の日常に成り果てていた。最早その行いがその町の常識だとでもいう程に、其処では窃盗や暴力を始め、その他ありとあらゆる違法行為が横行していたのだった。
 そんな世界に取り残された幼いリェンが生き抜く為には、矢張り正当なやり方など望める筈も無く。本来為されるべき教育も満足に与えられなかった少年は、善と悪の区別さえも曖昧なままに、必要に迫られれば法を破る事も辞さなかった。そうしなければ、路地の隅に転がって人生を終えるだけだから。今となっては全て、言い訳でしか無いのかも知れないが。
「かつての事を思えば、本来僕は此処に居られる様な人間じゃない。それは自分でも分かってる」
 絞り出した声は自分でも驚く程、自嘲に塗れていた。
「けれど、その状況下では仕方無かった事もまた事実だわ。貴方の幼い頃と言ったら二十年以上前でしょう? 当時の下層区域はかなり劣悪な環境だったそうじゃない。そんな中で必死に生にしがみ付いて来たからこそ、今貴方はこうして私達の目の前に居てくれてる。そうでしょう?」
 肯定してくれるシャンの声に、素直に頷く事は出来なかった。確かに、どうしようもない事ではあった。だが、それが罪であった事もまた事実。それを、リェン自身が否定出来ずにいた。当時は振り切れていた過去から、今は抜けられずに居る。皮肉な物である。
「それでも……例え当時の僕がそれを悪い事だと認識していなかったとしても、行いが罪に値する事は事実ですから。どんな事情があろうと、それは否定の仕様がありません」
「律儀なのね、貴方も。……いえ、囚われていると言った方が正しいのかしら」
「そうかも知れません」
 シャンの言う事は、恐らく正しい。彼女の表現は、何処か腑に落ちる所があった。
「それで、何がどうなって今になるの? 今のリェンからはあまり想像が出来ないんだけど」
 率直に、メイが問う。確かに、今のリェンは善悪の区別も付く大人だ。だからこそ過去に囚われてしまっているとも言えるのだが、それは置いておくとして。
「拾われたんだ。師匠と呼んで、知識も与えられて……武芸も習った」
「その時に培った物が、今に生かされてるってこと?」
「……まぁ、うん。そうとも言えるかな」
 思わず、言葉を濁した。善悪の区別を教えてくれて、善の為に生きろと言ってくれた人。生き抜く為に必要な力を、手段を、与えてくれた人。家族の記憶が存在しなかったリェンにとって、初めて祖父の様に思う事が出来た唯一の人。彼が自分に遺してくれた物は、きっと大きいのだろう。
 きっと、彼が居なければリェンは此処に立つ事は無かった筈だ。生存していたのかも、分からない。
「良い人と、出会えたのね」
「ええ、幸運だったんだと思います。全てが良かったと言えるのかは分かりませんが……」
 それ以上の言葉を紡ぐ事が出来ず、リェンは言葉を呑み込んだ。その先を、言うべきか否か。覚悟は決めた筈であったが、それでも僅かに迷いが生じる。
 瞬間。その迷いを機敏に察知した声が、鋭い響きを持って部屋中に響き渡った。
「全て話す、ってお前言ったよな?」
 自ずと、声の主へと視線が向く。先刻まで眠りに落ちていた筈の少年の視線が、真っ直ぐに此方を射抜いていた。未だ夢の中を彷徨っているとばかり思っていた一同は、驚きに目を見張る。
「リュウ、貴方起きていたの?」
「さっき目が覚めた」
 簡素に答えつつも、リュウの視線はリェンから揺るがなかった。普段ならば明るい光を宿す彼の大きな瞳は、今はただ暗い灯火を思わせる色に染まっている。それはまるで、怨恨の焔の様に。
 彼がリェンに対して反発する様な感情を抱いているらしい事はその態度から薄々感じていたが、それは単なるライバル視の様な可愛い物だと、誰もが思っていた。けれど。これは。
「リュウ、貴方……」
 諫めようと口を開いたシャンですら、どう声を掛けたら良いのか考えあぐねている様子だった。それすらも意に介していない様子で、リェンは鋭く言い放つ。
「お前、さっき自分で全部話すって言っただろ。だったら話してみろよ。本当に、全部の事を」
 確信と共に紡がれた言葉。それが意味する事は、恐らくただひとつ。そう、リェンは悟る。
 彼は、知っているのだ。まだ触れてもいない、更に深い真実の事を。だからこそ、リェンが傍に居る事に抵抗を示したに違いない。今ならば、彼の態度にも納得がいく。其処に気付かなかったのは、それを知る者が他に居ないだろうという身勝手な安堵だったのだろうか。
「……そうか。君は、知ってるんだな」
「知ってるも何も、俺は当事者だ」
「…………ッ!」
 返された言葉に、視界が白く染まった。それは、意識が飛び掛ける程の衝撃だった。
「そ、んな……まさか、そんな事、が」
 声が擦れる。上手く言葉が紡げない。それでも溢れそうになる声を押し留める様に、リェンは喉を強く押さえた。そうでもしなければ、絶叫していたかも知れない。
 彼の反応から見出した見当は、決して間違いでは無かった。だが現実は、想像よりも遥かに厳しい現実を用意して待っていたのだ。それが、リェンの罪に対して与えられる試練とでも言う様に。
「リェン? 大丈夫?」
 流石に心配になったのだろう、メイが不安そうに見上げて来た。案じる様な眼差しに、理性が少しずつ戻って来る。心を落ち着かせる様に深く息を吐き出すと、リェンは静かに頷いた。
「あぁ、大丈夫。ごめん、取り乱した」
 彼女達は、何も知らない。全て話すと言った以上、そしてその全てを知るであろうリュウを目の前にしている以上、それを明かさない事は彼らへの裏切りになろう。
 全てを明かした後に待っているのは、彼らとの離別になるのかも知れない。それでも。彼らに秘密を隠したままでは、この先共に居る事は出来ない。そう、今は思える気がする。だから。
「ごめん。ちゃんと、話すから」
「ん、分かった。少しずつでも良いから、教えて」
 幼い上司に承諾の頷きを返して、リェンは再び口を開いた。今度こそ、全てを語る為に。


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