序章 不思議×噂話


「本当に、行かれるのですか?」
 引き止めるかの様なニュアンスを秘めた声に、少女は僅かに眉を寄せた。正面に立つ青年の表情は渋く、何処か重い。事の重大さを認識しているが故である事は明白だったが、彼女にしてみれば深く考え過ぎである。
「ええ、勿論よ。もう決めたの」
 はっきりと断言してみせる。揺るがない意志。それを伝える事が、今の彼女に最も必要なこと。此処で僅かでも不安を見せたとあらば、彼は全力で止めに掛かるだろう。
 青年は常から変化の乏しい表情に、戸惑いの色を滲ませた。何かに迷う様に視線を転々とさせた後、言葉を紡ぐ。
「ならば、私も共に参ります」
「……何ですって?」
 思わず問い返していた。それも当然の事だろう。今から自分が取ろうとしている行動は、彼も承知している筈だ。
「私の役目は貴方をお守りする事ですから」
「そうは言うけど、貴方に迷惑は掛けられないわ!」
「いいえ。貴方だけを危険な目には遭わせられません。貴方をお守り出来るのならば、私はそれで良いのです」
 真っ直ぐな瞳を向けられては、無碍に断る事など出来なかった。今まで彼が自分にどれだけ尽くしてくれていたのか、どれだけ大切にしてくれていたのか、彼女はそれを悟ったのだ。
「分かったわ。貴方がそこまで言うのなら、一緒に行きましょう。但し、何が起きても責任は取れないわよ?」
「それでも構いません」
「……分かった。なら、行きましょう」
 頷いて、少女は踵を返した。青年が、後に続く。
 ――――此処から、ひとつの物語は始まった。

*

 その日の学校は、やけに騒がしかった。ひとたび廊下を歩けば、主に女子の話し声が場を支配する。彼女達の間に広まっていく噂話の早さは、馬鹿にならない。成瀬千歳は興味を胸に、クラスメイトにその原因を問い掛けた。
「どうかしたの?」
 問われたクラスメイトは目をぱちりと瞬かせて、その直後信じられないといった様子で詰め寄って来た。
「知らないの!? 校門の前のビラ配り!」
「ビラ配り? あたしが来た時には居なかったんだけど」
「あ、そうなの? じゃあ見せてあげる、コレよ」
 言って彼女が掲げて見せたのは、鮮やかな桃色の美しい広告。表記されている文字の羅列を見るに、何処かの店がで開店するという告知が目的の物らしい。
「洋菓子店、チェリー・ブロッサム……?」
「それ、ブラッサム、って読むんだよ? 千歳ちゃん」
「うきゃあぁっ!?」
 突如背後から言葉を投げかけられ、千歳は盛大な叫びを上げた。教室中の視線が、一挙に注がれる。羞恥のあまり頬を赤く染め上げて、千歳は背後に抗議した。顔を見なくたって、すぐに分かる。こんな事をする奴は、周りを見回した所でたったひとりしか存在しないのだから。
「慶玖っ! いきなり割り込まないでよ!!」
「間違えたまま覚えない様に、親切に訂正してあげたんじゃない。勝手に驚いたのは千歳ちゃんでしょ?」
「そんなの、驚くに決まってるじゃないのよ!」
「ま、絶対驚くとは思ってたけどねー」
「じゃあ同じ事じゃないのよぉっ!!」
 恒例の兄妹喧嘩が始まった、と教室は笑いに包まれる。
 同じクラスに在籍する千歳と慶玖のふたりは、兄妹だ。だがそれだけでは無い。ふたりは双子なのである。
 似た様な顔が口論を繰り広げる様は何処か奇妙で、度々起こる衝突はいつしか恒例と呼ばれるまでになっていた。尤も喧嘩と言うより、慶玖が面白い様に千歳を揶揄っている、といった方が正しい表現であるのだが。
「で、何それ」
 思う存分揶揄って満足したのか、慶玖が問う。千歳は受け取ったチラシを慶玖の目の前に突き付けてやった。精一杯の嫌みを込めて。
「自分で読めば。あたしじゃ、間違いますから!」
「あー……だろうねえ」
 小馬鹿にしたこの兄に肯定などという心意気があるとは思っていなかったが、こうも迷い無く肯定されると腹が立つ。しかし此処で口を出しても無駄に口論を長引かせるだけだ。千歳は仕方無く、黙り込んだ。不本意だが。
「明日開店の洋菓子店、ねえ。盛り上がりの原因はコレ? オンナノコってそういうの、大好きだよね」
「うん、でもね。ただ洋菓子店がオープンしただけじゃこんなに噂になったりしないよ」
 そう言うクラスメイトに、千歳は納得する。
 確かに、幾ら新しいとは言え洋菓子店だ。この町にだって美味しい洋菓子店など他にもあるのだから、興味は湧けども此処までの盛り上がりを見せる事など稀だ。他に理由があってもおかしくは無い。寧ろ、無い方が不自然だ。
「この洋菓子店に、何かあるの?」
「違うの。店じゃなくて、このビラを配っていた人が何て言うのかな……こう、不思議なのよ」
「不思議? 何がどう不思議なの?」
 その質問に、クラスメイトが困った様な表情を見せた。言葉に迷う様な、表現に苦労する様な、そんな顔。
「このビラを配ってたっていうその人の髪の色、すっごく綺麗なピンクでさ。目も少し赤っぽくて。なんだか人間離れしてるみたいに、見た事も無い様な美人で。少し見ただけで記憶に刻まれるって言うかさぁ……ああ駄目だ、言葉にしようとしても上手く伝えられないよ」
「その人、そんなに凄いの?」
「うん。千歳ちゃんも見ればきっと、あたしの言いたい事が分かると思うよ」
「へえ……そうなんだぁ」
 瞳を輝かせて断言する彼女の姿を見ていると、流石に気になってくる。千歳は慶玖の手からチラシを奪い取って、その文面に再び目を通した。開店の日付は明日。この様子だと、学校帰りの時刻には人が溢れてとんでもない事になっているかも知れない。しかし興味は湧く。出来れば早いうちに拝みたい物だ。
「あたしも行ってみようかなぁ」
「それが良いよ! 落ち着いたら一緒に行こうね」
「うん、そうだね。……あ、このチラシ、貰っても良い?」
「良いよ。私、もう一枚持ってるから」
 快く譲って貰ったチラシを手に、席に座る。そして、どういう訳か隣の席である兄に、こそりと提案した。
「ね、帰りに寄ってみない?」
「何で今日なの。開店は明日でしょ? だいたい、どうして千歳ちゃんと一緒に帰らなきゃならないのさ」
「どうせ帰り道一緒なんだもの問題無いでしょ。それに、開店前に友達と行ったってしょうがないじゃない」
「悪いけど、今日は用事があるの。行くならひとりで行ってらっしゃーい」
 ひらひらと手を振って、慶玖はそう言い切る。夢中になって話を聞き込んでいたから、てっきり乗ってくれると思ったのが間違いだったのだろうか。
「……なによ。大した用事じゃ無い癖に」
 拗ねた様に呟いて、千歳は机に突っ伏した。


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