第1話 チェリー・ブラッサム探訪


 放課後。千歳はひとり、例の洋菓子店へとやって来ていた。
 その店は大通りから一本入った所にある細目の路地に面している為、人通りは驚く程に少ない。本来ならば、新規の店を構える事を拒否したくなる様な立地である。此処を選ぶなど、よっぽどの物好きか無謀者か、他に土地を得られなかった弱者か。そんな所しか見当が付かない。
 そんな立地条件と開店前という事もあって、周囲に千歳以外の姿は見当たらなかった。注意深く、辺りを窺う。端から見れば怪しい素振りだが、有り難い事にそれを咎める者は誰も居ない。それはこっそりと見に来た事を誰かに見られる可能性は低いが、逆に通行人でも通りさえすれば、誤魔化し様が無いという事でもある。利点と欠点が混在しているこの状況を、千歳は深く考えない様にした。
 店の前に立ち、その外観を眺める。淡い桜色をした外壁に、鮮やかな桃色が眩しい屋根。ピンクを基調にした外観は可愛らしく、女の子受けする事間違いなし。路地に面した入り口は全面ガラス張りになっており、開店前の今は薄紅色をしたカーテンに遮られて店内を窺い知る事は難しい。だが恐らくその内装もきっと可愛らしいであろう事は、外観を臨めば容易に想像が付く。
 そんな全身桃色の店は確かにお洒落である事は間違い無いのだが、それは裏を返せば少々奇抜という事でもある。目の前にそんな建物が姿を見せているという事実が、まるでそこだけが別世界であるかの様な錯覚を起こす。此処が自分の住む地域などとは到底思えない。
 その違和感は、人の目を惹くには充分だろう。そう思えば、それすらも計算して此処に店を構えたという事も考えられる。他人の関心を向けさせる事が出来れば、新店舗としては成功なのかも知れない。そして客の心を掴めるのか否か、それは店主の腕に懸かっている。
(最終的には料理の腕、だよね……)
 心の中で呟いて、千歳は改めて店を臨んだ。開店したら絶対に此処のケーキを食べてみよう。人知れずそう意志を固めると、千歳は踵を返そうとした。
 ――――のだが。
「ちーとーせーちゃーん♪」
「う、うひゃぁあああぁっ!」
 背後から名を呼ぶ声に、千歳は絶叫する。振り向いてみれば案の定、鏡に映したかの様な顔がにこにこと笑っていた。邪気のないその笑顔が、今は酷く憎らしい。
「慶玖っ! だからいきなり喋りかけないでってば!!」
「いやぁ千歳ちゃん立派な不審者みたいだったよ?」
「…………これっぽっちも嬉しくない」
 だいたい立派な不審者って何よ、と千歳はむくれた。それを簡単に笑い飛ばして、慶玖は言う。
「しかし本当にひとりで来るとは思わなかったな」
「悪い!? それに慶玖こそ、今日は用事があるんじゃなかったの?」
「そんなのとっくの昔に終わったよ。誰かさんと違って手際が良い物でー」
「悪かったわね、手際が悪くて!」
「誰も千歳ちゃんの事だなんて一言も言ってないでしょ? やだなぁ自意識過剰って」
 人の顔をまじまじと見ておいて、良く言う。
 思ったが、口には出さなかった。慶玖相手に言葉で勝てた事など無い。言葉だけでは無く、勉強でも運動でも、その他の何を比較しようと、千歳が勝てる物など存在しなかった。今の今まで、一度たりとも。
 慶玖は言ってみれば、天才肌の人間だ。大した努力をせずとも、ある一定基準以上の事が出来てしまう。気付いた時には、比較の構図が出来上がっていた。出来の良い兄と平凡以下の妹、と。
 歳が離れていれば、影響も少なかっただろうか。そんな事を考えた事もある。せめてただの兄妹であれば、割り切る事が出来ただろうか。――――双子でさえ、無ければ。
 面と向かって言う者は少なかったが、「顔は同じなのに」などという言葉は聞き飽きる程の常套句だ。顔が同じであっても、中身は別の人間であるのに。それを、理解してくれる者は思う程多くは無い。せめてもの救いは、男女の双子であった事実かも知れなかった。
 だが、千歳は別に慶玖を嫌っているつもりは無い。隙さえあれば揶揄ってくる事は腹立たしくもあるが、自分を驕ったりしない潔さは好いている。自慢気な言葉さえ、冗談の響きに似ていて嫌味に聞こえないのだ。だからこそ、此処までそれなりに仲良くやって来れたのだと思う。
「で、わざわざ店を見に此処まで来るなんて、そんなに興味あったんだ?」
「いや、別に。千歳ちゃんが此処に来るって言ってたから、揶揄いに来ただけー」
「あ、あんたねえっ!」
 何気なく放った問いを軽い冗談で打ち返され、千歳は思わず叫んだ。慶玖を相手にマトモに訊いたのが間違いだったのかも知れない。思って、深く溜息を吐く。
 すると、不意に見知らぬ声が閑静な道路に響いた。
「あの、貴方達……もしかして、お客さん?」
 透き通る様な声に、千歳は振り向く。そうして視界に映った物に、声にならない声を上げた。
 そこに在ったのは、ひとりの女性の姿だった。簡単に言えばそれだけの事ではあるが、その女性の髪は華やかな桃色だったのだ。朝、クラスメイトが声高らかに語っていた、例の女性で間違い無いのだろう。
(ほ、本当に居た……!)
 内心で、叫ぶ。疑っていた訳では無いのだが、実際に目にしてみると真っ先に浮かんだ感想はそれだった。
 女性は緩いウエーブの掛かった髪をふたつに括り、制服なのか桃色を基調とした服を身に纏っている。今は戸惑いに似た表情を浮かべているその顔立ちは、神に造られた美しさと形容しても過言では無いだろう。美人、とはこの事を言うのだろうか。いや、そんな言葉さえも相応しく無いとさえ思える程だ。
 女性の姿に見入ったまま立ち尽くす千歳に変わって、慶玖が答えを返した。
「此処に店が出来る、って聞いて。それでどんな所だろう、って興味本位で覗きに来たんですよ」
「まぁ、それは嬉しいわ。でもごめんなさい、オープンは明日なのよ」
「いえ、大丈夫です。それは承知してますから」
「そう? 折角来てくれたのに、何だか申し訳無いわ」
「勝手に来たのは僕達の方ですから。気にしないで下さい」
 流れる様に繰り広げられる会話を、千歳はただ呆然と聞いていた。現存する事さえ奇跡の様な人を相手に、何事も無い様子で遣り取りが出来るなどとは信じられない。普通に考えれば彼女を前にして、男性である慶玖の方が言葉に詰まってもおかしく無い筈だ。
「そうだ、ちょっと待っててね」
 突然、彼女がそう言い残して店へと駆けていった。その後ろ姿を目で追い、千歳は首を傾げる。程なくして、彼女が戻って来た。その手には、小さな箱がひとつ。
「これ、私の作ったケーキなんだけれど。良かったら」
 言って、彼女は箱を差し出した。この展開には流石に慶玖も戸惑った様子で、桃色の小箱を前に返答を迷っている。勿論、千歳は黙って箱を眺めているばかりだ。
「お気持ちは嬉しいですが、僕達には受け取る理由がありません」
「貴方達が来てくれた事が、私には嬉しいの。だから、これはそのお礼よ。貴方達の口に合うかは分からないけれど、もしこれを食べて美味しいと思ってくれたら……その時は、ウチの店で買って頂戴」
 そこまで言われてしまっては、断る理由の方が思いつかなかった。まだ渋っている慶玖の横から、千歳は箱を受け取る。急に伸びた手に、驚いたのは慶玖だ。
「……じゃあ、お言葉に甘えて、頂きます」
「そう? 嬉しいわ、ありがとう」
「ちょ、千歳ちゃん!」
「良いじゃない。折角の好意を無駄にする方が失礼よ」
 諫める様な慶玖の声にキッパリと反論の意を唱え、千歳は女性に向き直った。
「ありがとうございます。帰ったら、頂きますね」
「ええ。喜んで貰えると、嬉しいわ」
 彼女はふわりと微笑んだ。それは花が咲いた様な、可憐な笑み。
 その姿は不思議と記憶の隅に残って、千歳の頭から暫く離れる事が無かった。


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