序章 “アリス”の目覚め


 ――――夢を、見ていた。
 温かくて、幸せな、夢。誰も傷付く事の無い、誰も嘆く事の無い、夢。
 誰もが皆、笑顔を崩す事の無い、穏やかで優しいひととき。
 それを――――夢に、見ていた。

*

 少女がぱちり目を開ると、目に飛び込んで来た物は一面の緑であった。
 さわさわと揺れる葉が、頬を優しく撫でていく。瑞々しい若葉の香りが鼻孔を擽り、麗らかな陽射しが身体を温めている。麗らかな陽気。悠然な大地。その感覚に意識が達した瞬間、少女は飛び起きる様にして身を起こした。未だはっきりとしない頭のまま、周囲を見渡す。
 其処は、広々とした草原であった。寝転がってしまえば身体をすっぽりと隠してしまう様な、背の高い草花ばかりが風に揺れている。少し先には森と思しき木々が見えるが、町らしき物は見当たらない。
 その自然に包まれた光景に、少女は一切の覚えが無かった。
「ちょっと待って……此処、何処……?」
 呟いた声は、僅かに震えていた。目覚めると見知らぬ土地、という件は物語でも良くある話であるし、冒険の始まりを予感して胸を躍らせる事も出来るが、それを実際に経験するとなれば話は別だ。自身の置かれている状況に、恐怖を覚えても無理は無いだろう。
 少女とて、この現況を楽観的に捉えられる程、能天気な思考回路はしていない。
 それでも、このまま此処に居続ける訳にもいかないだろう。少女は自身の記憶を遡ろうと試みる。何故、自分は此処に居るのか。そもそもどうやって此処まで来たのか。自分は何処から来たのか。そして――――自分が何者であるのか。
「嘘……覚えて、ない……だなんて。まさか、そんな」
 記憶喪失、というカテゴリに含めても良いのか迷う程に、少女からは様々な情報が抜け落ちていた。恐ろしい程に、綺麗さっぱりと。今この瞬間に造り上げられたかの様に、その過去は無であった。
 手詰まりだ。自身が誰であるか、何処から来たのか分からなければ、帰り様が無い。呆然と、少女はその事実を受け止める事しか出来なかった。
「……でも、手掛かりが無い訳じゃ無い」
 自分を鼓舞する様に、強い口調で言い切る。そう、本当の終わりでは無い。
 ひとつだけ、彼女には残されている物があった。無に等しい記憶の中で、唯一彼女に残された物。それがある限りは、まだ自分を取り戻す事も、帰る事も不可能では無い筈だ。
「取り敢えず、人を探さないと。誰かに話を聞かなきゃ、此処が何処かも分からないし」
 しかし目印になる物が皆無のこの空間では、下手をすれば見当違いの方向に進んでしまうだろう。適当に向かって町に出る事が出来れば良いが、進んだ先が森の奥深くでは体力を消耗するだけだ。どうした物かと悩んでいる少女へ、投げ掛けられる声がひとつ。
「そんな所で、どうかしたんですか?」
「――――――――え」
 反射的に、少女は声のした方向へと身を翻した。
 其処には、籠を手に提げた少年がひとり立っている。ふわふわと柔らかそうな栗色の髪と、ライムグリーンの大きな瞳。まだ幼さの残る顔で、彼は不思議そうに此方を見下ろしていた。
「あ、えっと、私は」
 変に怪しまれるのは避けたい。そう思い至った少女が口を開いたのとほぼ同時。少年の表情がみるみるうちに驚きと喜びの入り混じった物へと変化し、身を乗り出す様にして声を発して来た。
「そっか、“アリス”! “アリス”だね!! 君が今回の“アリス”なんでしょう!?」
「“アリス”? ちょっと待って、何なのそれ。私は“アリス”なんかじゃなくて!」
「分からないのも無理は無いよ。だって、僕達がそう呼んでいるだけなんだもの。ええと、一応訊くんだけど、君はこの“ワンダーランド”の生まれじゃないよね?」
 少年の口にした名称に、覚えは無かった。分かった事があるとすれば、この土地――――もしくは国が、“ワンダーランド”という固有名称を持っている、という事だけだ。
「違うわよ。“ワンダーランド”だなんて、聞いた事も無いもの」
「そっか。うん、なら君は“アリス”だよ。間違いない」
 うんうん、と納得する様に頷く少年に、少女は僅かな苛立ちを覚えた。どういう訳か、“アリス”という呼称を使われる事を受け入れられない。反発心が湧き起こるのだ。
「ねえ。その、“アリス”っていうの止めてくれない?」
「だって、“アリス”は“アリス”なんだもん。仕方無いよ。皆、説明したら理解してくれたよ?」
「……私はその説明、ってのを受けた覚えはないんだけど?」
「あ、そっか。じゃあ、一緒に来て。僕より説明の上手な人に、会わせるから」
「此処にひとり居ても、仕方が無いし……いいわ。説明して貰えるっていうのなら、貴方に付いてく」
 少女は心を決める。会ったばかりの人物に付いていくというのも少々不用心ではあるが、会話を交わした限りでは素直な部類の人物だろう。説明上手な人、とやらがどんな人物かは現時点で分かりかねるが、此処にじっとしているよりは進展も見込める事は間違いない。
「あ。自己紹介がまだだったよね。僕はトレニア。よろしく」
 真っ直ぐに見据えて名を告げた少年――――トレニアは、未だ座り込んだままの少女に手を差し伸べる。まだ発育途中の細い指に自分のそれを重ねて、少女は口を開く。
「私はルピナス。言っておくけど、“アリス”なんかじゃないから」
 そう。彼女に残された物はただひとつ。ルピナスという名前、だけであった。


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