第1話 帽子屋アスター


 トレニアが導いたのは、ルピナスが目覚めた位置から数分ほど歩いた先。森の入口付近に建てられた、木造の至って素朴な小屋であった。お世辞にも大きいとは言えないその小屋の玄関先には、帽子を象ったオブジェがさり気無く存在を主張している。
「帽子屋……?」
 直感的に思い浮かんだ単語を言葉にすると、トレニアの頷きが返って来た。
「うん、そうだよ。今は昔みたいに稼働してないけれど、それでも一応看板は残してるんだ」
「貴方、説明をしてくれるのよね? なのにどうして帽子屋なんか……」
「それは入れば分かるよ。大丈夫、説明はちゃんとするから安心して」
 さらりと告げたトレニアは、ドアノブに手を掛けると勢い良く引いた。カランというベルの音が響いたかと思うと、彼は迷う事無く店内に足を踏み入れる。扉が閉まる前に、ルピナスは慌てて身を滑らせた。
「アスター! 新しい“アリス”を見付けたよ!!」
 店内に入るや否や大声で告げるトレニアにルピナスが反射的に否定の言葉を口にしようとしたが、第三者の声に文句は封じられた。
「トレニア。扉は静かに開ける様にと言っている――――」
 咎める声は、最後まで形を成さずに途絶えた。声の主は、部屋の奥に座るシルクハットを被った青年であった。恐らく、彼がトレニアの言う「アスター」なのだろう。トレニアの背後に立つルピナスに視線を固定したまま、彼は信じられない物を見るような目で固まっている。その動揺にも似た視線を受けて、ルピナスは直感した。彼は自分にまつわる何かを知っている、と。
「何よ。そんな、じっと見て。もしかして、私の事、知ってるの?」
「……いや。また“アリス”がやって来たのかと、少々驚いただけだ」
 単刀直入に問うてみれば、彼は視線を外して静かに首を振った。それが事実なのか、偽りの言い訳なのかルピナスには分からない。それよりも今は、説明を求めるべきだろう。そう思い至って、ルピナスは浮かんだ問い掛けを記憶の隅に追い遣った。
「さっきから“アリス”って言うけれど、一体何なの? 私の名前はルピナスよ。“アリス”なんて名前じゃない。他の事は曖昧で私自身分からないけど、それだけは確信を持って言える。私の名前はルピナス。ルピナス……なんだから」
 自然と、掌に力が籠った。自分自身の存在を確かめる様に、ルピナスは腕を抱く。
「その口振りだと、自身の事も良く分かっていない様だな」
「そうよ。こっちはさっき目が覚めたばかりなんだから。気付いたら知らない場所に居るし、名前だけしか覚えてない。今の私は分からない事ばかりだけど、でも、貴方が説明してくれるって聞いたわ」
「説明、か。確かに、それは俺が荷っている事ではあるな」
「なら教えて。私は戻らなくちゃならないの。私が今まで居た場所へ。だから」
 此処へ居てはいけない。戻らなくてはいけない。理由も無く、そんな強迫観念に駆られる。何かに追い立てられる様な、そんな不安な気持ちを払拭する様に、ルピナスは捲し立てた。
 アスターはそんなルピナスを一瞥し、静かに問う。
「ひとつ訊くが。その場所とやらに覚えは?」
「……思い出せないわよ。頭に靄が掛かってるみたいにね」
 拗ねる様に、ルピナスは唇を尖らせる。
 名前以外に、記憶は無い。何処かへ帰りたい、帰らなければならない。湧き上がるその感情にさえも、理由を持てないのだ。ただ、何となくそう感じる。それだけ。その事実が、ルピナスは口惜しい。
「確かに今は思い出せないけど、でも、私にとって大切な場所だったと思うの。考えようとすると、心が温かくなる様な気がするのよ。だから、きっと其処は私の故郷なんじゃないかしら。だって、故郷に帰りたいと思うのは人として当然の事でしょう?」
 負の感情を必死に胸の内に押し込めて、ルピナスは言う。それは、紛れもない本心であった。確信など何も無い。ただ、そう信じたいだけの事ではあったけれど。夢は、希望は、捨てたくない。
 アスターはただ、そうか、と小さく呟くだけであった。
「アスター? どうかしたの?」
「いや、何でも無い。これから少しばかり話も長くなるだろう。茶の準備を頼む」
「はーい。……あ、それより“アリス”、座って? アスターってば、気が利かないんだから」
「だから私は“アリス”なんかじゃ」
「自分は座ってる癖に女の子を立たせたままだなんて。ましてや“アリス”はお客様なんだもん」
「……悪かったな。気が利かなくて」
「…………」
 反射的な訂正も、最早虚しく響くだけ。それでも、ルピナスは指摘せずにはいられなかった。自身の名前だけが、失った記憶を辿る唯一の手掛かりだからなのだろうか。たったひとつの存在意義。それさえも失くしてしまったら、自分が自分でなくなりそうな気さえする。
 しかしこの場でこれ以上主張をした所で無意味だろう。どういう意図があっての事かは知らないが、彼らも頑なに呼び名を直そうとしないのだから。名前の件はルピナスにとって重要ではあるが、それよりも今は説明である。思い直して、ルピナスは目の前にあった椅子に腰を下ろした。
「それじゃ、お茶入れてくるね」
 ルピナスの着席を見届けると、トレニアは奥の部屋へと姿を消した。アスターと彼の関係性は良く分からないが、キッチンを自由に使える程度には勝手を知った仲ではある様だ。
 ぼんやりとそんな事を考えていると、黙り込んでいたアスターが口を開いた。
「“アリス”と呼ばれる事が、不服そうだな」
「当たり前でしょう。さっきも言ったけど、私の名前はルピナスなの。記憶は無いけど、ちゃんと自分の名前は分かってるわ。なのに、さも当然の様に違う名前で呼ばれたら良い気はしないわよ。どういう事なの? トレニアも貴方も、私を“アリス”だって言うんでしょう?」
「……そうか。ならば、その説明からしよう。此処“ワンダーランド”には稀に、異なる世界から少女が呼び寄せられる事がある。俺達住人は、その少女達を総じて“アリス”と呼んでいる。お前をそう呼ぶのは、それが理由だ。少しは納得したか?」
「少しは、ね」
 理由は分かったが、“アリス”と呼ばれる事を承諾した訳では無い。ルピナスは言葉を強調した。説明に納得したが、その名で呼ぶ行為を納得したつもりは無いと、言う様に。
「で、どうして“アリス”なの?」
「…………一番最初に此処へとやって来た少女の名が、“アリス”だったからだ」
 謎の間があって、絞り出す様にアスターが答えた。
「ふぅん。それで、私の前に来たっていう“アリス”達はどうなったの? 帰れたの?」
「その問いに、明確な答えを返す事は難しい。確かに彼女達はこの“ワンダーランド”から姿を消した。だがそれが『故郷に帰った』のかどうか定かでは無い。行く先など、俺達には判別し難い事だ」
 突き放す様な物言いに、ルピナスは不満気に唇を尖らせる。
「随分と意地が悪いわね。そういう時は嘘でも『帰った』って言って、私を安心させるべきじゃない?」
「真実を言ったまでだ。生憎と、俺はそういう気遣いとは縁が無いのでな。期待はしない方がいい」
 体裁を取り繕う事もしない率直な返答に、ルピナスは面食らう。彼の纏う空気から下手なお世辞も言いそうにはない事は薄々気付いていたが、此処までとは。
「呆れた。貴方もなかなかの変わり者なのね。ま、私はそういうの嫌いじゃないけど」
 苦笑交じりに笑うと、アスターは逃げる様に視線を外す。そうして渋い顔で何かを呟いた様だったが、ルピナスには聴き取る事が出来なかった。
「何か言った?」
「…………いや。なんでもない」
 念の為に問い掛けた言葉には、否定だけが返って来た。どうせ奇妙な奴だとでも思われているのだろうと勝手に推測して、話を打ち切る。
 代わりに他の話を聞こうと口を開きかけた所で、トレニアが戻って来た。
「お茶が入りましたよー。はい、どうぞ。お口に合うと良いんだけど」
「ありがとう、頂くわ」
 琥珀色の液体が揺れるティーカップが、ルピナスの目の前に置かれた。ふわりと漂うお茶の香りに誘われて、ルピナスは手を伸ばす。一口含めば、絶妙な甘さと香ばしさが広がっていった。紅茶の様で、少し違う。しかし癖の無い味わいは、不思議と後を引く。
「ん、美味しい」
「良かった。最初の“アリス”が好きだったお茶なんだけど、今度の“アリス”も気に入ってくれて」
「……最初の、“アリス”」
 ルピナスが“アリス”と呼ばれる、その理由にもなった少女。その正体に、興味が湧いた。
「ねえ。最初の“アリス”について聞きたいんだけど」
「それよりも知るべき事があるだろう。初代の事など、さして重要な事でも無い」
 言及を避けるかの様な振る舞いには思う所があったが、敢えてそれ以上触れずに先を促す。まずは自分の置かれている状況を把握するべきだ。それからの追究でも遅くはない話題だろう。
「……まぁいいわ。それで、“アリス”とやらが呼ばれる理由っていうのは?」
「一切の不明だ。我々は、その現実をただ受け止めているに過ぎない」
「何よそれ。世界の神秘ってわけ? 面倒な事に私を巻き込まないで欲しいんだけど」
 深々と、溜息を吐き出す。
 その時唐突に、第三者の声が割って入った。


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