第7話 卒業


 空は雲ひとつ無い澄んだ青空で、巣立つ若人の未来を祝福してくれているかの様だった。
 毎年この日は決まって、輝かしい晴天を以て迎えるのが常だ。噂によれば何らかの魔術による物らしいが、それも定かでは無い。だが真偽がどちらであるにせよ、土砂降りの雨の中で晴れ舞台に立つよりは、この眩しい程の陽の光に彩られて旅立つ方が何倍も幸せである。
 ――――卒業式という名の儀を行うのならば、尚更。
 式が目前に迫りつつあるその頃、鈴紅は美鈴を宥めるのに必死であった。
 美鈴は卒業挨拶を行う代表に選出されており、それ故の緊張なのだろう、表情をくるくると変えてはうわ言の様に何かを呟いている。慌てる様に顔を真っ赤に染めたと思いきや、今度は戸惑う様に真っ青にするその姿は、傍から見ても大丈夫なのかと動揺する程だ。
 慌しいまでのその反応は寧ろ彼女らしいと鈴紅は僅かながら思ったが、当事者にしてみればそんな物は褒め言葉にはならないだろう。「その冷静さを少しでも良いから分けて頂戴」などと零す美鈴には、逆効果なのかも知れない。鈴紅は彼女の言に苦笑しつつ、言葉を呑み込んだ。
 そうこうしているうちに式の開始を知らせる鐘が鳴り、気付いた美鈴が身を震わせた。
「大丈夫だ、美鈴なら出来る。私が保証する」
 最後の後押しとして短く告げると、初めて美鈴の表情が和らいだ。
「ありがと鈴紅。そう言って貰えて、何だか少しほっとした」
 そう呟くと、美鈴は気合いを入れるが如く自らの両頬を掌で力強く叩いた。
「うん、今ならあたし、やれる気がする!」
 先刻までの態度は何処へやら。俄然やる気を出した美鈴はそう宣言すると、卒業生の集まる待機場へと向かっていく。ひとまず緊張から解放された彼女の様子に、鈴紅は安堵の息を吐いたのだった。


「あぁあ緊張したぁあーッ!」
 豪快に伸びをしながら、美鈴は天高く叫んだ。
 式は滞りなく無事に終了し、何のミスも無く役目を終えた美鈴はすっかり安心した様子で喜びを噛み締めている。その横で、美鈴は苦笑した。これで、もうレパートリーの無い励ましの言葉を連ねる必要も無くなった。その点に於いて、鈴紅にとっても肩の荷が降りたと言っても良いだろう。
「ありがとね、鈴紅。それから、さっきはその……ごめん」
 天に向かって感動をひとしきり吐き出した美鈴が、思い出した様に言う。鈴紅は首を振った。
「謝る事では無いだろう。大人数を前にして、緊張しない方が珍しい」
「まぁ、そうかのかもだけど。でも何だか、鈴紅なら平然とやってのけそうな気がするのよね」
 ぽつりと落とされた呟きに、鈴紅は戸惑いを禁じ得なかった。
 鈴紅は周囲に頓着しない傾向にある。仮に大多数の前で盛大に失敗を演じようが、人である以上仕方が無いと思っている節がある故か、今まで緊張という感情に至った事は限りなく少ないのが現状だ。
 そもそも、どんなに人の目に晒されようとそつなくこなしてしまうのが橘鈴紅という人間であるのだが。
「……わ、私だって、緊張くらいはする」
 先刻ああ言った手前余計な事は言えないと判断し、鈴紅はそう嘯いた。
「そう? あまりそういう所、見た記憶無いんだけどな」
「それは、顔に出ないだけだろう。見ての通り、私はこういう性格だから」
「ふぅん。でも、それもちょっと困り物よね。気付かれない事が利点とは限らないもの」
「そう、か?」
 予想外に広がりつつある話題に困惑しながらも、鈴紅は無難な相槌を打つ。美鈴は大きく頷いた。
「そうよ。顔に出ないと、他人は表情で読み取れないでしょう? だからって分かる様に無理にでも顔に出せーっていうのは、何かちょっと違う気もするんだよね。だからね、なかなか表に出ない心を読み取ってあげられる様な人がひとりでも隣に居たら良いんじゃないかなぁって、そうあたしは思う訳よ」
「ええと、それはつまり?」
「うん。鈴紅の緊張を察してあげられないあたしは、まだまだだなーってコト」
 そう断言されてしまっては、何も言えない。それが少しばかり吐いた嘘だという事も、彼女が傍に居てくれる事が何よりも心強いのだという真実も。今は、胸の中にだけ仕舞っておく事にした。
「でも、もう卒業かぁ」
 その短い呟きに籠もっていた様々な感情に、鈴紅は気付く。ひとつの目的に到達した喜びと、新たな一歩を踏み出す不安と、現状から離れる惜別の情と。そんな様々な思いが、その一言に集約している。それに思わず同調したのも、鈴紅自身が似た感情を抱いているからだろう。
「あぁ、早いものだな」
「鈴紅と出会って、まだ一年も経っていないのに。もう離れちゃうなんて寂しいよ」
 そう言って、美鈴はふと気付いた様にずい、と顔を寄せる。
「ね、鈴紅はこれからどうするの? そう言えば、あたし何も聞いて無かった」
「これから、か……実は、まだ考えている所なんだ」
「え、今考えてる段階? ちょっと、それは、正直マイペースと言うか何と言うかだよ……?」
「だが、迷ったままでは何をしても無駄だろう。確かな意志を持った上でなければ」
「まぁ、それは確かにそうなんだけど。もう、あたし達は此処を卒業しちゃうのに」
「美鈴は、上級アカデミーの進学が決まっているんだろう?」
「うん、そう。もう少し、色々学んで知識を深めたいなって思って」
「そうか。おめでとう」
「ありがと」
 さわさわと、木々が揺れる。心地好い風が、吹き抜けて空を舞った。ふたりの間に降りた沈黙を掻き消そうとするかの様に、自然界が生み出す音が響く。
「……まだ、一緒に居たいって思うのは、あたしの我侭なのかな」
 不意に、美鈴が呟いた。
「進むべき道が違っても、永遠の別れでは無いだろう? いつでも会える」
「確かに、鈴紅の言う通りだよ。でもね、まだ一緒に学びたい事もあるし、他にも遊んだり、笑ったり怒ったり、泣いたりだってしたい。ずっと、一生傍に居たいなんて事は言うつもり無いけど、でも、もう少しだけ隣に居て欲しいな、なんて思うのは……きっと我侭、なんだろうね」
「そんな事は無い。そんな事は……」
 出会って、一年足らず。長い様で、過ごしてみればあっという間の僅かな期間。まだ、道を別つには少しばかり早い。それは、確かに両者の中に存在している思いだった。
 上手く言葉が見つからない。往くべき道が見つからない。もどかしさに、鈴紅は唇を噛む。
 昔は、こんな感情を知らなかった。誰かと過ごす毎日など、知らなかった。この世界は、自身のみで過ぎていける物だと、そう思っていたから。本当は、そんな事など無いのに。
 けれど、今は違う。共に歩みたい友が、傍に居る。毎日が少しずつ違う顔を見せて、新しい何かに少しずつ触れてゆく。変わってゆく喜びを知る事が出来たのは、紛れも無く美鈴のお陰だ。
 進路が違えど、互いの心が変わらぬ限り友情が消える事は無い。それは確かな事実。
 それでも、傍に居る喜びは何にも代え難いもの。可能であれば、その時間をもう少しの間掴んでいたいと思う。その機会が未だ失われていないのならば、尚更。
「…………挑戦、してみようか」
 ぽつりと、言葉が口を突いて出た。自分でも不思議な程にあっさりと、けれど確かな声で。
 その時美鈴は、驚きの入り混じりながらも満面の笑みを浮かべた。


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