第3話 迫り来る恐怖


 何が起こったのか、分からなかった。
 自分の身に何が起こったのか、どうしてこんな所に居るのか。何ひとつ理解など出来ていない。白紙同然の記憶の中で、リィアは辺りを見回す。
 そこは、暗闇が広がっていた。
 どこまでも、どこまで行っても漆黒が支配している。その黒が満ちた世界に、リィアはぽつんと立っていた。光源は無く、自らの姿も、眼前に差し出した手すら見えない真の暗闇。いつまで経っても闇に目が慣れる事は無く、自身が闇に溶け込んでその一部になってしまったかの様な錯覚すら起こさせる。
 リィアは形の見えない恐怖に襲われた。
 どうすればいいのだろう。どうすれば、光の満ちた世界に戻れるのだろう。鈍る思考を何とか動かしてみるが、何も浮かんでは来ない。リィアはその場に座り込み、頭を抱えた。
 何だか頭が痛む。重たく、鈍い痛み。その事実にふと気付いた時、同時に吐き気が襲って来た。身体に異物を押し込まれる様な不快感が、じわじわと込み上げてくる。
 もう何も考えたくなかった。全てを終わりにして、楽になりたい。ただそればかりが、頭に浮かぶ。
「誰か……誰か、助けて」
 震える声で、呟いた。それが無理な事だと頭では理解していたが、そう願わずにはいられない。
 ふと、世界の質感が変わった様な気がした。リィアは首を巡らせて辺りの様子を窺ったが、視覚的な変化は何も起こっていない。ただ闇が広がっているばかりだ。けれど、悪寒の様な物が身の内を侵蝕し始めていた。何かが蠢く様な気配を、辺りの闇に紛れて感じる。
 リィアはふらつく足で立ち上がった。そうして一歩踏み出そうとして、動きを止める。
 声が聞こえた、気がした。声と言うべきなのかは分からない。例えて言うのなら、思念の様なものが語りかけてくる様な、そんな感覚。それは強ち間違っていないのかも知れない。
 リィアは突如襲った恐怖感に、動けなくなった。何かが押し寄せてくるのが、気配で分かった。逃げようと思ったが、意思に反して足は動いてくれない。高波に呑み込まれてしまいそうな恐怖感を覚えた。気配は徐々に近付いて、リィアを包み込もうとする。
 このまま飲み込まれる。
 直感的にそう思った。胸の内にあるのは、ただ恐怖ばかり。
 すぐそこまで気配が近付いてくる。本能的な悲鳴が、喉の奥から溢れ出す。
「――――いやぁッ!!」
 叫んで、リィアは飛び起きた。視界に入って来たのは、明るい光と白く清潔な部屋。其処が団内の医務室である事を、はっきりとしないままの頭で悟った。
「…………夢?」
 確かめる様に、呟く。
 夢にしては生々しく、まるで実際に経験したかの様だったが、それが現実では無い事は理解出来た。しかし一度生まれた恐怖感は、未だに胸の内に燻っている。忘れたいのに、どうしても忘れられない。忘れようとするればするほど、それを拒む様に夢の記憶はより一層鮮明な画像に変わる。
 再び蘇る恐怖を消し去ろうと、リィアは強く頭を振った。
「リィアさん、大丈夫ですか!?」
 リィアの横に控えていたらしいハクロが、心配そうに眉根を寄せて顔を覗き込んで来た。何だかほっとして、リィアは大丈夫、と頷いてみせる。右には紅瑛の姿もあった。ふたり共、ずっと傍に居てくれたのだろうか。そう思うと、嬉しさが込み上げて来る。そして何より、安心した。
「ただ、夢を見ていただけなの。だから、大丈夫」
 そう簡潔に説明してみせると、ふたりは顔を見合わせ、何かを確信したかの様に表情を変えた。何なのだろうかと思う間もなく、紅瑛が口を開く。
「夢、ってどんな内容だったか覚えてるか?」
 リィアは答えようとして先刻の夢を思い出し、その恐怖と不快感に眉を顰めた。が、ゆっくりと覚えている事を口にしていく。これは話すべきなのだという事を、無意識に感じ取っていたからだ。
「真っ暗な所に私は居て、何も見えなくて。気分が凄く悪くて、頭も痛くて。何かが近付いて来るのが分かった。何だか分からないけれど、それに呑みこまれそうで怖くて、逃げようとして、でも逃げられなくて、それで叫んで……目が覚めたの」
 簡単な状況説明を口にして、リィアはふたりを見比べた。どちらも同じ様に硬い表情のままでいる。
「……そうか」
 表情は崩さず、紅瑛はそう呟いただけだった。その短い返答に、リィアは不安になる。
「ねぇ、何が起きたの? いまいち良く分からなくて」
 客観的に状況を把握しているであろうふたりに、リィアは問い掛けた。ジバウォークで仕事をしていた筈が、気付けば医務室のベッドの上。自分の身に何かが起こっていなければ、この状況は有り得ない筈だが、その原因が把握出来ていない。
 ふたりの表情の硬さが事態の深刻さを物語っている様な気がして、リィアはそれを尋ねずにはいられなかった。何も知らなかった、で済ませたくはなかったのだ。
「魔石に魅入られたんです。多分……間違いないと思います」
 ハクロが躊躇いがちに、けれど確信的な響きを持った声音で答えた。その言葉に、リィアは愕然とする。まさか、そんな事があるのだろうか。様々な思いが、頭を巡る。
 他人事だと思っていた訳ではない。彼らと行動を共にしている以上、避けられない事ではあるだろうと予測はしていた。それに、実のところ期待もあった。
 いつも自分は守られてばかり。だから、自身を守るくらいの、足手まといにならないだけの力を欲していた。しかし実際その身となった今では、ただ不安が募るばかりだった。
 魔石に魅入られた者――――有力者。彼らに関わる様々な研究の報告書は、リィアも目にした事があるし、聞いた事もある。目の前のふたりを見て知った事もあるし、そしてまだ知らない事も山の様にあった。それらが頭の中で、浮かんでは消えていく。様々な情報が入り乱れる中で、リィアはとある事に気付いた。波の様に押し寄せてくる、恐怖と共に。
「鏡……ねぇ、鏡を見せて」
 リィアの漏らした呟きに、ふたりが一瞬動きを止めた様な気がした。それが不安を助長させる。リィアは震える声で、もう一度訊いた。
「私、何か変わった? ねぇ、何が変わった?」
 恐怖に支配されて、冷静な意識は何処かに飛んでいってしまった。それが自分自身でも良く分かった。けれど同時に、どうする事も出来ないのだという事も理解していた。
 恐怖という負の感情に呑みこまれてしまい、どうにもならない。焦り、不安、そして恐怖。昔の自分ではなくなってしまうという事が、変化するという事が、こんなにも恐く、辛い事だったのか。その辛さを、周りの有力者達は乗り越えてきたのだろうか。紅瑛も、ハクロも、そしてメアリも、他の皆も。
 けれどリィアには、それに耐え抜ける自信が無かった。恐怖に駆られて、ただ縋る事しか出来ない。半狂乱になりながら、ただ叫ぶ事しか出来ない。
「ねぇ、教えて! 何が変わったの!?」
「――――落ち着け!」
 がし、と両肩を掴まれて、リィアは我に返った。冷静に目の前の顔を見つめて、小さく息を吐く。肩に入っていた力が、するりと抜ける様な感覚を覚えた。
「紅瑛……」
 慌てて取って来たのであろう手鏡を差し出しながら、ハクロが弁解する様に言った。
「外見には何の変化も起きていません。メアリさんも、奇跡だって言ってました。これで、確かめてみて下さい。嘘は言ってません。すぐばれる事ですから」
 リィアはハクロをじっと見つめて、それから手鏡に視線を向けた。手を出すのが恐い。鏡を覗くのが恐い。何の変化も無いのだと聞かされても、それでも確かめるのは恐かった。その気持ちを察したのだろう、紅瑛が代わりに鏡を手に取り、リィアの手に持たせる。そうして宥める様に、優しく言った。
「ちゃんと自分で確認しろ。答えは分かっているんだ、心配する必要は無い。そうだろ?」
 紅瑛の言葉にリィアは頷いて、手にした鏡を恐る恐る、ゆっくりと顔の位置まで上げた。小さく丸い円の中に、自分の顔が映っていく。濃紺の髪、緋色の瞳。血色のいい肌の色。髪型にも顔の造りにも、何の変化も現れていない。過去の記憶に残る姿が、そのまま映し出されていた。
 それを自身で確かめ、認めた時、張り詰めていた緊張の糸が緩むのが分かった。ほっと安堵の息を吐くと、自分でも何故だか分からないまま、涙を流していた。
「リィアさん!? ど、どうかしたんですか!?」
 リィアの涙を目にしたハクロが慌てて叫び、どうしたものかと落ち着かない様子であちこちを見回す。
「大丈夫……何か、安心しただけ」
 リィアは止まらない涙を頻繁に拭いながら、そう答えた。そうして無理矢理に涙を堪える。
 リィアは何らかの力こそ手に入れたらしきものの、外見には何の変化も起きなかった。それは確かに喜ばしい事ではあるのだが、けれど回りの者達は違う。
 皆が苦しみや悲しみを乗り越えて、今の喜びや楽しみを感じているのなら、自分はそれを受け止め、理解するべきだ。同じ有力者として、そして仲間として。そうして一緒に、笑い合ってやるべきなのだ。手放しに喜んでは、このまま泣き続けては、他の有力者達に失礼だろうと、リィアはそう思う。
 涙を全て拭い去り、リィアはふたりに視線を向けた。
「紅瑛、ハクロ、ありがとう。私……ふたりが居てくれて良かった」
 そう言って笑みを浮かべる。その顔はきっと澄んだ物になっていると、そう願いながら。


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