第4話 交錯する想いたち


 魔石に魅入られた時の記憶は、そう簡単に忘れられる事ではない。それは記憶の根底に根差し、ふとした時に湧き上がって来る。奇妙な違和感と、恐れを抱いて。
 魔石に魅入られたという事は、同時に魔石に選ばれた、という事でもある。それを証明するかの様に、力を手にした者は皆同様に同じ夢を見たと証言した。そしてそれは先刻、リィアが見た夢と酷似している。暗闇の中で、何かの気配を感じる夢。そして、それに呑み込まれそうな恐怖の夢。
 リィアが魔石に魅入られた事は、確定したと言っても良い。事実、紅瑛もハクロも同様の夢を見た記憶がある。それは鮮明に、まるで昨日の事の様に蘇る程だ。
 それを露骨に思い出してしまって、紅瑛は眉を顰めた。いい加減に解放して欲しいと思うが、記憶の法則に逆らって忘れるどころか更に鮮明さを増していく様な節さえある。質が悪い事この上無い。
「強い人ですよね、リィアさんって」
 不意にハクロが呟いた。ソファの上で膝を抱える様にして座り、視線をテーブル上の一点に注いでいる。ふたりが居る休憩部屋には、異様な沈黙が流れていた。
「幾ら外見上の変化が無いと言ったって、自分の本質は以前と間違いなく変わっている筈なのに……それなのに、あんなに早く笑えるんですよ?」
「あれは強いんじゃない、強くなろうとしてるだけだ。だが、そう思う事が既に強さを持っている、という事なのかも知れないがな」
 そう、強くなりたいという想いだ。それは自分とて、同じこと。
「それに比べて僕達は、弱いですよね」
「まぁな。俺ですら全てを受け入れるのに半年かかった」
「僕なんて一年ですよ? 例え外見に変化が無くても、僕はすぐ笑う気になんてなれません。きっと」
「団長の娘って立場がそうさせてるのかも知れないな」
「でしょうね……」
 ハクロが、小さく息を吐いた。
「僕達がもっと強さを持っていれば、リィアさんを護ってあげられたのかも知れませんね」
「最初から強い奴なんて居ない。何らかの努力をして、そうして強くなるもんだろ。だったら、今からだって遅くない。努力さえすれば充分に護ってやれる、それで充分だ」
「です、ね。……頑張ります」
 決心の言葉を背で聞いて、紅瑛はドアノブに手を掛けた。
「部屋、戻るんですか?」
「あぁ。どのみち今日はもう仕事は無いだろうからな」
「そうですね……明日から当分忙しくなりそうですし。僕も部屋に戻ります」
 ハクロが立ち上がって、傍らへとやって来た。その表情は、いつもの様に穏やかで、明るくて。彼自身、強くあろうとしているのが分かった。
「……行くか」
「はい」
 いつもの様に並んで、ふたりは部屋を後にする。心の奥深くに、新たな意志の灯火を燃やして。
 強くなければ、自分に与えられた運命に負けてしまう。それは嫌だった。だから、強くなりたいと切に願うのだ。自分の弱さを理由に、後で後悔などしたくないから。
 だから、常に願い続けるのだ――――強さを得る事を。

*

 リィアは医務室のベッドに横たわったまま、じっと天井を見つめていた。念の為に無理はせず、今日は寝ている様にと言われていたのだ。
 あれから何度も眠りから覚めては、全てが夢だったのだろうかと思う。外見に何の変化も起こらなかったリィアには、実感というものがいまいち湧かなかった。何も変わらない様に思えるのも、仕方の無い事だろう。けれど、身体の奥深くに自分自身でも知らない力が眠っているのかと思えば、一転して不安に襲われる。先刻からそればかり繰り返して、リィアは小さく溜息を吐いた。
 と、控え目に医務室のドアを叩く音がして、それに気付いたメアリが席を立つのが、気配で分かった。固く閉められたカーテンの向こうで、会話を交わす声が僅かに聞こえる。
 誰かがやって来たのだろう、という事だけを頭の隅で受け止めて、他は気にも留めなかった。そこまで注意を払える程の思考能力は無く、細かい事まで気にする余裕が、今のリィアには欠けていた。
 足音が近付いてくる。カーテンが薄く開けられ、現れた訪問者の姿に、リィアは声を上げていた。
「父さん!」
 訪れたのはどうやらリィアの父であるバートだった様だ。おそらく話を聞いて心配にでもなったのだろう。父が自分の事になると目の色が変わるのを、今更ながらに思い出した。
「起きていたのか。体調は大丈夫か? 何かあったらすぐに言いなさい。仕事中だろうが何だろうが、直ぐに飛んでくるから」
「ありがとう、父さん。でも大丈夫だから、心配しないで?」
 言って、リィアは上体を起こす。バートが慌てた。
「無理はするな。まだ寝てていいんだぞ?」
「父さんは心配しすぎなのよ。身体に問題がある訳じゃ無いんだし、大丈夫って言ったでしょう?」
 過保護な父親に苦笑して、リィアは言う。バートはベッド横に置かれていた椅子に腰を下ろし、安心する様に微笑んだ。
「そうか……お前にもしもの事があったら、母さんに顔向け出来ないからな。お前を絶対に護るって、約束したんだ。母さんの分まで、幸せになれる様に」
「母さんと?」
 母のエミリアはリィアがまだ幼い頃に、病が原因でこの世を去った。それ故に、リィアは写真でしか母の姿を見る事が出来ず、母が自分にどう接してくれていたのか、どんな風に自分の名を呼んでくれていたのか、おぼろげにしか覚えていない。けれども不幸だとは思わなかった。父が居て、彼は母の分まで自分を愛してくれているのが分かっていたから。それだけで、充分に幸せだった。
「そうだ。母さんとの、大事な約束なんだ」
 大きくて温かい手が、優しく頭を撫でる。子供の頃に戻った様な、心が安らぐ感覚。自分が幸せなのだと、感じる瞬間。この一時が、リィアにとって何よりの喜びだった。
「リィア」
 儚い物を手にする様に優しく、そして柔らかく、バートが名を呼んだ。リィアは視線を父に向け、注がれる視線を真っ直ぐに見返した。
「これから辛い事が沢山あるだろう。今までの自分とは違う不安に駆られる事もあるだろう。だけど忘れるな、何があっても父さんはリィアの味方だ。だから自分を見失うな。いつだって、父さんはお前を見守っている。リィアは父さんの大切な娘だ。それだけは、ちゃんと憶えていてくれ」
「……うん。ありがとう、父さん」
 リィアは父の身体に身を預け、小さく微笑んだ。バートは優しく、その大きな腕でリィアを包み込んでくれる。その温かい思いが、嬉しかった。
「さて、そろそろ行かないとな。いつまでもこうしていたいが、やらなければいけない仕事がある」
 呟いた父の言葉に頷いて、リィアは身を起こした。
「今日はゆっくり休んでおきなさい」
 気遣ってくれるその言葉に微笑みを返し、リィアは父を見送る。カーテンの向こうに大きな背中が消えようとする時、引き止めるかの様に、思わず言葉が口を突いて出た。
「――――父さん!」
「どうした?」
 自分でも何故呼び止めたのかが分からなくて、リィアは思わず口元を手で押さえた。振り返ったバートの視線が、不思議そうに揺れる。
「ううん、何でもないの。お仕事、頑張ってね」
「あぁ、分かった」
 今度こそ見送って、リィアは一息吐いた。
 心の隅に生まれた僅かな予感は、彼女自身ですら気付いていない。


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