第6話 不穏な影


 何処か遠くで、大きな物音が聞こえた気がした。目が覚めたのはそればかりが原因では無いだろうが、何か予感を察知したのかも知れない。目覚めはとてもではないが、良好とは言えなかった。胸の内に残る、不思議な不安と予感。それを形付けるかの様に、周囲の音は騒がしい。
 何かが起こっている。それは、確実に理解出来ていた。けれど、それ以上を知る術が今のリィアには無い。そっと起き上がり、ベッドから降りた。仕切られたカーテンを開けてその向こうを窺い見ると、焦った様子のメアリと視線がぶつかる。やはり、何かが起きているのだと確信した。
「何か、あったの?」
 余計な言葉は捨ててそれだけ問うと、メアリは少し困った様に顔を歪めた。的確な返答を迷う様にしていたが、やがて小さく頷く。
「そうみたいね。でも、貴方はまだ寝てなさい。今日は無理に動かない方が良いわ。まだ詳しい事も分かっていないし、後の処理はあたし達に任せて。ね?」
「……分かった」
 メアリの言う事は、いつも間違いが無くて正しい。医者であり、有力者でもあるメアリは、多くの物事を知っているからだろう。此処で下手に動いて周囲に迷惑を掛ける事はしたくない。何か分かれば、ちゃんと彼女は教えてくれる。メアリはそういう人だ。
 だから素直に頷いて、リィアはカーテンを閉じた。見届ける様な、メアリの視線には気付かずに。
 今は何も知らない方が良い。
 そう――――今だけは。

*

 壊滅した研究室を初めて目にし、メアリは絶句した。
 吹き飛んだ壁の向こうには、沈みゆく陽の光とグラデーション掛かった夕刻の空。その光景は自然の持つ神秘的な輝きを超越し、想像を絶する程の脅威を秘めて、爪痕をありありと見せつけて来る。
「一体、此処で何があったというの……?」
 誰に問うでもなく、呟く。団員達が事後処理に追われて忙しなく動き回る中、メアリはただひたすら固まった様に、その場に立ち尽くしていた。動けなかった、と言っても良い。
「メアリ医師」
 不意に呼び掛けられて、メアリは我に返った。まだ若い研究員助手が神妙な顔で口を開く。
「一緒に来て頂けますか。状況の説明をしたいと、ドクター・ホブソンが」
「ルイが? 分かったわ、行きましょう」
 突如出された同僚の名に疑問を感じたものの、メアリはあっさりと頷いた。
 助手の導くままに、多くの団員達が行き来する廊下を進んでいく。彼は現場からほど遠い、小さな応接室へと辿り着くと、そこで足を止めた。
「こちらです。どうぞ、お入り下さい」
 促されるままに足を踏み入れて、室内に同僚の姿を確認した。小さめの窓から僅かに入り込む日没の陽光が、何処か物寂しい心持ちを抱かせる。
 明らかに普段とは違う異質な空気を纏った彼に、メアリは眉を顰めた。
「どういう事なの?」
 傍らに立つ助手に、説明を求める。しかし彼は小さく首を横に振った。
「詳しい事は、私にも知らされておりません。ドクターが全て自分で話す、メアリ医師を呼ぶように、と」
「……そう」
 メアリは短く答えた。彼の仕事はこれまでの様子で、小さな会釈を残してその場を去っていく。部屋の扉が完全に閉じるのを待ってから、メアリは小さく息を吐き出した。
 小さめのソファに腰を下ろした彼は、驚く程にただ無言だった。もともと多くを語る様な人物ではなかったが、今の彼には精気そのものが失われている様に見える。薄暗い室内照明の所為だろうか、少しやつれている様にすら見えた。
 メアリは彼の向かいに座り、呆れた様に説明を促す。
「ルイ。貴方が自分で話す、と言ったのよね? だったら早く説明して頂戴」
「そう、なんだ。それは分かっているんだが、言葉が上手く出てこなくて」
「…………」
 耳に届いた声は、驚く程に掠れていた。一体何があったのか、詳しい事はメアリも知らない。見当すら付かなかった。ただ団内で事故が起こったという事、そしてその現場に居たのが団長であるバートであったという事だけ。けれど今の状況から察するに、恐らく彼も一緒に居たのだろう。
「……メアリ」
「うん?」
 執拗に説明を求めるのは得策では無いと判断を下し、メアリは一転、聴き手に回った。彼の心が落ち着き、ある程度説明が出来る状態に回復するのを待つしかないのだ。
 幾許かの間があって、漸くルイが口を開いた。
「実際の所、僕にも何が起こったのかは分からない。ただ、突然火の手が上がって……そこからの記憶が曖昧で、良く憶えていないんだ」
 途切れ途切れながらも語ろうとする彼の姿が、とても儚い物のように思えて、メアリは目を伏せた。
「そんな状況だったのなら、憶えていなくても当然だわ。仕方の無い事よ」
「……あぁ。すまない」
「本当に、良く無事だったわね。奇跡としか思えないわ。ううん違う……本当に、奇跡よ」
 その呟きに含まれた重苦しい響きに気付き、ルイは思い出した様に顔を上げた。
「メアリ。団長は……団長は元気なのか? 僕がこうして助かったんだ、団長も勿論」
「言ったでしょう、奇跡だって」
 言葉を遮る様に、断言する。その一言しか、言葉にならなかった。最悪の結果を、口に出す事は出来なかった。そこから察したのだろう、ルイの表情が一瞬にして驚愕へと変貌する。
「そんな……まさか、そんな事がある筈無い。そんな事は、あってはならないんだ……!」
「何故、こんな事になったの? 私達はあの娘に、一体何て説明したらいいのよ!」
 あの娘――――。その言葉に、ルイがはっとした様に表情を改めた。
「…………姫君、か」
「ええ。私達よりも遥かに苦しいのは、あの娘だわ。私達の何百倍ものの苦痛が襲うのよ? ただでさえ魔石に魅入られて戸惑っているのにこんな、こんな事になるなんて!」
 それを思うと、いてもたってもいられなくなった。今起きているこの現実が夢であるのだと、そう思いたかった。けれど、過去はどうにもならない。失ったものは、決して戻って来ない。
 それは頭で分かっているのだ。それでも、心が素直に認められない。
「こんなの、拷問よ」
 呟いた言葉は、確かにその通りで。ただ虚しいだけの空気が、重く圧し掛かる。
「しかし、黙っていても彼女に伝わるのは時間の問題だ。惨いとは思うが、早いうちに真実を知らせるべき……なんだろうな」
 自身よりも辛い位置にいる少女を思って、ルイは言う。その表情には幾分か生気が染み出して来た様に、メアリの瞳には移った。自身が一番辛く悔しい思いをしているのでは無いという事実に気付いた今、彼がいつまでもその感情を引き摺る様な人物ではない事を、メアリは知っている。
「分かってはいるけれど、こればかりは難しいわね……」
 不穏な影が、少しずつ侵蝕を始めていた。


BACKTOPNEXT