第10話 傍に居るから


 数時間振りに見たその姿は、酷くやつれていた。
 状況が状況なだけに理解はしていたつもりだったが、実際に目にしてみると事態の深刻さを思い知らされる。昨日は元気な顔を見せていた彼女に、今となってはその面影も見えない。どんな言葉も今の彼女を支える糧にはならないのではないか――――そんな意識さえ生まれる程に。
 何が最善策かも分からぬまま、紅瑛は入口に立ち尽くしていた。急かす様に、ハクロが服の裾を引っ張ってくる。早くリィアの傍へ行け、という事だろうか。
 溜息ひとつ零して、紅瑛はリィアの横たわるベッド脇に歩み寄った。ハクロもそれに倣う。
 光を宿さぬ真紅の瞳が、虚ろな色を纏って此方を見上げて来た。その姿は瞳の奥に焼き付き、溢れ出て来る感情は鋭い刃の様に胸に突き刺さる。何もしてやれない自分を、歯痒く思う程に。
「調子はどうだ?」
 重苦しい空気を取り払う様に、敢えて明るい声音で話しかけた。それは場の雰囲気に酷くそぐわない物だったかも知れないが、無理にでも変えようとしなければ一生このままだ。酷な事かも知れないが、それが今一番必要な事だと思ったが故の判断だった。それが良いか悪いかは、分からないが。
「……うん、平気。昨日はずっと寝ていたし、病気だった訳じゃないもの」
 答える声は、恐ろしい程に単調だった。演技という物を知らない者がただ台詞を読み上げているだけの様に、一本調子で抑揚がまるで無い。表情をころころ変える彼女の唇が紡いだ声とは、とても思えなかった。父を失ったという衝撃が彼女の精神に多大な損害を与えているだろう事は、明白だ。
「そうか。もう、起きても大丈夫なのか?」
「メアリは大丈夫って言ってくれた。けど……もう少しだけ、休んでいた方が良いと……思うの」
 躊躇う様な声音で、リィアはそう呟いた。何を思って彼女がその言葉を口にしたのか、其処に籠められた感情を正確に理解する事は、恐らく不可能だろう。大方の意思を汲み取る事は出来るが、それが真実とは限らない。今は、下手に踏み込まない方が得策だろう。
「そうだな、無理は良くない」
「…………うん」
 リィアは少しばかり意外そうな顔をしたが、すぐに小さく頷いた。その頭に優しく触れると、ネイビーブルーの髪が指の隙間を縫ってさらりと零れ落ちる。不意に行われたその行為に、リィアの瞳は困惑に揺れていた様だった。それも当然だろう。こんな風に、まるで子供にする様な触れ方など、過去に一度だってした事が無いのだから。しかし嫌ではないらしく、彼女はされるがままになっている。
「色々な事が次々に起こって、疲れただろう。気持ちの整理だって、まだ付けられない筈だしな。だから、今はしっかり休むべきだ。時間を掛けたって構わない」
「……紅瑛さん!」
 ハクロが、慌てた様子で袖を引いて来た。
 一刻も早くリィアを立ち直らせること――――それを遂行させる役割を担っているのだから、その逆を推奨する様な発言をしてはハクロが黙ってはいないだろう。そんな推測は立てていたが、こうも想像通りの反応が返って来るとは思わなかった。内心で苦笑しながらも、紅瑛は視線だけで合図を送ってみせる。流石は相棒と言った所か、それだけでハクロは此方の意図を理解した様だった。
 彼の小さな頷きが説得を一任する意を表していると解釈して、紅瑛はリィアに向き直る。
「落ち着け、と言っても今は無理だろうな。でも無理はしなくて良い。逃げたいなら、そうすれば良い。嫌なら忘れても良いんだ。きっと誰も、お前を責めたりはしないから」
 リィアの瞳が、僅かに揺れる。しかし彼女が何を思ったのかまでは、読み取れなかった。
「だから今くらいは、現実を忘れたって良い。目を閉じて、眠っている間は現実も幻に変わるからな」
 その言葉に従う様に、リィアが目蓋を閉じた。子供をあやす様に、その頭を優しく撫でる。
「大切な誰かを失う事は、誰だって辛い。その現実を乗り越えるのも、容易い事じゃない。だから、無理をしてまで抑え込む事は無いんだ。悲しいと思う事は、当然の感情だからな。泣いたって構わない。寧ろ、こういう時だからこそ泣かなきゃならないんだ」
 小さく頷く様な素振りを見せたリィアは、顔が隠れるまで布団を引き上げた。小さな身体が静かに揺れるのには気付かない振りをして、紅瑛は言葉を続ける。
「でも、皆お前を心配してる。お前の心情を察して、心を痛めてる。団の皆だけじゃない。俺や、ハクロだって同じだ。お前には、いつだって笑っていて欲しい。そう、皆思ってる。今までその笑顔がどれだけ皆を励まして来たか……お前、気付いてないだろ」
 布団の隙間から、窺う様な瞳が覗く。込められた真意を探る様に、言葉の真実を求める様に。
「悲しむな、なんて言わない。落ち込むな、なんて言わない。自分の心に決着が付いたらで構わない、また皆に笑顔を見せてやってくれ。皆、その日が来る事を信じて待っているだろうから」
 そっと触れていた掌に伝わった振動から、ほんの僅かに、首が縦に動いた様な気がした。彼女の中に、少しでも希望が生まれただろうか。それを期待しながら、そっと手を離した。
「魔石の事も、今回の事も、俺達はお前の傍に居ながら何も出来なかった。一番近くに居たのに、お前を護ってやれなかった。俺達は、その為に居るのに……ただ、見ている事しか出来なかった」
 先刻まで触れていたその掌に、力が籠った。
 自分の力無さに、どれだけ絶望したか。自分の力不足を、どれだけ後悔したか。
 けれど立ち止まってなどいられない。この事実に直面した時、強さを乞い願った。何があっても強くあろうと、自身を奮い立たせた。だからこそ、行動に移さねばならない。今度こそ、彼女を護れる様に。
「今度こそ、護ってみせる。お前の傍で、お前を護る。今度は……ちゃんと護る為に傍に居るから」
 それは、決意表明に等しかった。心の奥底からの、願いと誓い。その宣言だった。
 横でそれを見ていたハクロも、倣う様にして言の葉を紡ぐ。
「……僕も……いえ、僕だって同じです。リィアさんには、いつだって笑っていて欲しいんです。此処が明るくて楽しい、って思える様になったのは、周りの皆さんや……団長が……優しかったから、っていうのもあります。でも、最初にそう思えたのは、リィアさんの笑顔だったんですよ?」
 僅かに覗く瞳が、揺れる。ハクロは照れる様に笑った。
「リィアさんの笑顔を見て、僕は力を貰いました。この笑顔を護る為に、頑張ろうって思えたんです。だから、今度は僕達の番です。全身全霊を懸けて、リィアさんを護りますから」
「…………ッ!」
 再び、リィアは布団を引き上げた。堪え切れない様に、布団に隠された肩が震えるのが分かる。
「…………行こう」
 小さな声を掛けると、ハクロは頷くと同時に行動に移った。後に続き、紅瑛も彼女の許を離れる。
 涙を堪える彼女の小さな声が、耳に残って離れなかった。


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