第15話 保護


 静かに見えた、ほんの僅かな狂気。それを目の前にして、レノはどう動くべきか逡巡した。
 彼女の言動から推測するならば、この状況を引き起こしたのは彼女自身である可能性が高い。仮にその推測が間違っているとしても、彼女の精神状態は決して安定しているとは言えなかった。不用意な発言をして刺激してしまっては、更なる惨事を引き起こさないとも限らないだろう。
 彼女の保護が目的である事を悟られぬ様注意を払いながら、レノは口を開いた。
「貴方の言う事は、ある意味では正しいのかも知れません。ですがこのまま此処に居ては、貴方も無事では済まないでしょう。貴方は、この町と共に消える事を望んでいないのでは?」
 その言葉が、正しい選択なのかは分からない。しかし彼女の瞳に浮かぶ感情の色が、微かに変化した。彼女の心の奥底にある何かを、ほんの少し捉える事が出来たのかも知れない。
 彼女が、薄く笑った。穏やかだが、儚い笑み。
「そう、かも知れないわね。わたしの復讐は、まだ終わってはいないもの」
「復讐……?」
 小さく音になった物騒な単語に、レノは眉を顰める。しかし彼女はそれを気にも留めない様子で、ただ微笑みを浮かべている。その落ち着いた表情は、感情が壊れている様にさえ錯覚させた。
「わたしは、わたしから全てを奪った奴を許さない。何をしてでも、同じ様な目に遭わせてやるわ」
 ぽつりぽつりと零されてゆく言葉は、どれも深い闇を纏っていた。
 何が彼女を駆り立てるのか、見当も付かない。しかしこのまま彼女を放置しては、後に何らかの悲劇を生むだろう事は明白だ。多少強引な手段を取っても仕方が無いのかも知れない、と思い直す。
 彼女は、誰に言うとでも無く言葉を連ねていた。
「だからこの町を本当に燃やしつくすまで、あの忌まわしい過去を消し去るまで、わたしは死ねない」
「……本当に?」
 発せられた言葉の一端に引っ掛かりを覚えて、レノは呟く。
 本当に、とは一体どういう意味だろう。今もこうして町は燃え盛っているというのに。それではまるで、町は燃えていないと言っているかの様ではないか。其処まで考えて、レノは思い出す。拠点に到着した際にハクロが呟いていた言葉を。彼は、「違和感がある」と言っていた筈だ。
 ――――その違和感の正体が、この炎が幻であるという事実であったとしたならば?
 確信が持てる訳では無かった。炎熱も確かな実感となって肌に触れている今、幻とは考え難い。だが、その推測が間違っているという証拠も存在しなかった。
 もとより根気強く説得している暇は無いのだ。そう自身に言い聞かせ、レノは彼女の腕を取った。
「とにかく、今は此処から離れましょう」
「や……!」
 反射的に、彼女が手を剥がそうと暴れ出す。予想以上の力に、レノは慌ててもう一方の手を出した。正直、腕力に自信があるとは言い難い。しかし此処で彼女を取り逃がす事だけはしたく無かった。必死に腕を掴む両手に力を込め、振り切られぬ様に耐える。
「大丈夫です、何もしません! ただ、貴方を助けたいだけです!!」
 一瞬、彼女の動きが止まった。その隙を狙い、レノは彼女の脇腹に軽く拳を叩き込んだ。
 彼女の意識が途切れる。瞬間、風が吹いた様な錯覚を覚えた。

*

 辺りに漂う空気の変化に、いち早く気付いたのはハクロだった。冷気にも似た、大気の流れが押し寄せる感覚。それが錯覚であると認識したのは、町の異質な異変に気付いたからだ。
「炎が……」
 漏れた呟きに、一同が町へと視線を向ける。そうして視界に映った光景に、誰もが息を呑んだ。
 ――――炎が、跡形も無く消えていた。
 まるで幻を見ていたかの様に、其処には平穏な町並みが存在していた。炎の焼け跡も、崩れ落ちた外壁も、何もかもが嘘の様に消え去っている。
「ちょっと、これってどういう事なの?」
 ビアンカが喚いた。だがそれに正確な回答を与えられる者が居る筈も無く、ただ戸惑いの空気ばかりが広がって行く。炎に包まれていた町が幻であったのか、それとも今見ている物が幻なのか。その判別すら認識出来ない程に、それは唐突な出来事だった。
「全て、幻だった……?」
 ハクロが呟く。燃える町を眺めた時に生まれた、微かな違和感。何もかもが嘘の様に消えた今ならば、それが偽りの光景であったからではないかと推測出来る。確かに伝わって来た筈の熱風さえも単なる幻であったのか、それは疑いたくもあったが。
「幻、というのは強ち間違っていないと思います」
 涼しい声が、困惑の漂う空気を切り裂いた。視線を向けると、其処に在るのは女性を背負ったレノの姿。意識の無いらしいその女性は、先刻炎の中で見掛けた有力者と思しき彼女――――保護対象とされた人物に間違いは無い。無事、保護に成功したのだろう。
 リィアの指示で、彼女は他の団員に引き渡された。団の施設に送り届ければ、あとはメアリが適切な対応をしてくれるだろう。体力、そして精神のどちらにおいても、恐らく彼女が適任だ。
「残りは任せて、僕達は帰りましょう。現状がどうなっているのか、今の所は不透明ですし」
 ハクロはそう提案する。その考えに、リィアも頷いた。町が無事であるのなら、避難済みの住人達もすぐに住居へと戻れる筈だ。他の団員達に任せても大丈夫だろう。
「そうね。彼女の能力についても、ちゃんと確認してみないとだし」
「彼女の能力の有無、そしてそれが幻の炎なのか、それとも火を消し去った方なのか、それとも別の何かか……その結果次第で、意味は大きく変わって来ると思います」
 レノが、独り言の様に言う。彼の頭の中では、既に幾つかの推論が組み立てられているのだろう。
「何にせよ、まずは彼女の様子を見ないとね。レノ、後で彼女の様子や会話を教えて」
「分かりました」
「じゃあ、取り敢えず戻りましょう。後はそれからね」
 リィアの言葉を合図にする様に、彼らは拠点から撤収した。


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