第16話 暗躍せし者


 静かな空間にこつりと響き渡った足音に、思わず手が止まった。
 辺りは、夕闇に呑まれて薄暗い影を落としている。手元を照らす灯りだけが、周囲の姿をぼんやりと浮かび上がらせる唯一の光源。離れれば離れる程に闇を色濃く深めてゆくその中にふと人間と思しき気配を感じ、眉根が寄った。訝しんだのも束の間、知った顔がその闇から顔を出す。
 赤髪を高く結った、女の姿。薄暗い闇の中に於いても、猫の如く煌々と輝く黄金の瞳。左方は眼帯に覆われ、その色は見えない。纏う空気は柔らかいながら、何処か張り詰めた様でもあった。
「……どういうつもりだ」
 低く問う。女は、意外とでも言いたそうな顔をした。
「貴方の言う通りにした筈だけど? お気に召さなかったかしら」
 揶揄する様に発せられた声は、しかし刺を含んだ様に鋭い。それを物ともせず、反論する。
「確かに、此方が言った通りの事をしてくれた。だが、殺せと言った覚えは無い」
「不可抗力よ。あの状況で助けろとでも? 無理な話ね。そんなに護りたかったなら、貴方が助けに行けば良かっただけ。全てをあたしの所為にしないで。一番の責任は、貴方にあるんだから」
 言い切られて、言葉に詰まる。彼女の言に、間違いは無かった。全ては、自身の計画の甘さが招いたこと。危機管理が不足していた。それは、否定しようの無い事実だ。
「今更何を言っても無駄、という事か」
「そういう事ね。貴方の後悔も懺悔も、ひとりで勝手にやって。そして早くあの女を見つけて頂戴。その為に、こうして貴方と手を組んでいるんだから」
「あの女……マリナ・ロズウェルか」
「そう。あたしから全てを奪った、憎むべき女」
「彼女を見つけて、そうしてどうする?」
 女の瞳が輝きを増した。憎しみと言う名の焔が、その感情に火を付ける。
「言ったでしょう? あたしの目標はただひとつ……あの女に復讐する事だけよ」
「復讐、か……それこそ意思を持って彼女を殺すとでも?」
「どうかしら。殺す事だけが恨みを晴らすとは思わないもの。あたしが感じた苦しみを、痛みを、あの女にも味わわせてやるだけ。まぁそれでも足りないなら、命も奪う事だってあるかもね」
「……それはどうだろう」
「何か言った?」
「いや、何でも。自由にすればいい」
 それだけ呟いて、口を噤んだ。其処から先は、彼女の領域だ。彼女が何をしようと、自身の関知する所では無い。探し人を見つける事と引き換えに、此方の協力をして貰っている――――ただそれだけの関係なのだから。その目的も、理由も、知る必要は無い。
「とにかく、一刻も早く探し出して。此処なら、有力者を見付け易いんでしょう?」
「確かに。但し万能では無い、という事だけ言っておこうか」
「まぁ良いけど。約束だから、貴方の手伝いはちゃんとするわ。何かあったらまた呼んで」
「分かった。宜しく頼む」
 ひらひらと手を振って、女は闇に消えた。まるで吸い込まれたかの様に、気配が途絶える。
 再びひとりになった部屋の中で、知れず息を吐き出した。灯りを引き寄せ、手元の資料を照らす。
 それは先刻団が保護した、有力者と思しき女性の調査書だ。言動が酷くあやふやで話を聞き出す事が困難だという報告を表す様に、記入された項目は限りなく少ない。記載内容から察すると、有力者であるか否かの断定さえも未だ出来ていない様だった。
 現時点で明確に分かっている事は、名前だけ。
 マリナ・ロズウェル。
 彼女の求める名が、其処には在った。


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