第17話 カルザレナの魔女


 静まり返った夜闇に、白い影がぼんやりと浮かび上がる。まるで闇に溶け込む様でいながら、けれど決してそれを許さない真逆の色彩が、その存在をより際立たせていた。
 柔らかな微風に長い髪を遊ばせ、少女の姿をしたそれは口の端に笑みを浮かべる。興味の感情が現れた様であり、また何処か侮蔑にも似た感覚さえ孕んだ、不可思議な笑み。
「ふぅん……これが『今』の世界」
 退屈そうにそれだけ言葉にして、少女は弾む様に歩き出す。これから起きる出来事が――――彼女が起こす出来事が、胸に空いた穴を塞いでくれる事に期待して。

*

 それは、何の変哲もない穏やかな朝だった。
 開店の準備に追われる様に忙しなく動き回るマルセアに反して、スゥイティアは相変わらずのマイペースで棚に薬の入った瓶を並べている。その様子には時折マルセアからの叱咤が飛ぶが、スゥイティアは自分のペースを崩さない。何度か注意をしていたマルセアも、仕舞いには観念して自分の作業に集中する。これが、いつもの「アルトバルド」の日常だ。
 それに加えて、今日は真剣な顔で書類に目を通すエレインの姿もあった。彼女自身の願いを受けてコルテス・ゲルトの弟子から三番弟子の座を与えられてはいるが、あくまでも「アルトバルド」の主はスゥイティアとマルセアのふたりだ。そういった意味ではエレインは部外者に当たる。その認識を持つが故に、彼女は店にまつわる多くに手を出す事はしていない。だが本来の仕事の手が空く時期には、時折店を訪ねて簡単な書類の整理や薬の管理を手伝っている。今日はそんな、少しだけいつもと違う日でもあった。
 それでも、いつもと変わらない。同じ様な日常が繰り返される――――筈、だった。
 店の扉が勢い良く開かれ、その音に誰もが扉の方向に視線を向ける。
「すみません、今はまだ開店前で……」
 言い掛けたマルセアが、言葉を切った。入口には、見知らぬ女性が血相を変えて立ち尽くしていた。その横には、彼女の肩を借りる形で何とか立っているといった様子の青年の姿。身なりから騎士かそれに近しい役職の様だが、その表情は青く、今にも倒れそうであった。一目見て、ただ事ではないと分かる程に。
「は……いえ、コルテス・ゲルトはいらっしゃいますか」
 静かな声で、女性が口を開く。澄んだ声音は、何処か不安げに震えている様だった。
「少々お待ちください、今、呼んで参ります」
 状況は分からないままではあったが、今は師匠を呼んで来る事が最善策であると察したマルセアが真っ先に動いた。次いで、エレインがふたりに駆け寄る。
「ひとまず、此方へ。其処のソファにお掛けください」
 青年に自らの肩も貸し、女性と共に店の隅に置かれたソファへと移動した。青年を座らせると、慣れた様子で彼の状況を確認していく。エレイン自身、薬師のひとりとして多くの患者を診て来た。あくまでも医者では無く薬師ではある為に完璧な診断が出来るとは言い難いが、それでも多少の知識はある。こういった実践要素の抱負さは、彼女の強みでもあった。
 青年には多くの切り傷があり、そのどれもが鋭利な刃物で付けられた様な物ばかりだ。それこそ剣と剣のでの闘いか、それに近しい何かがあったのか。一見するとそう思える様な状態ではあったが、不思議と違和感が残る。
「一体何が……」
 思わずそう、言葉が漏れた。女性がコルテス・ゲルトとの面会を望んでいる以上、エレインが不用意に問い質すのは最善とは言えない。あくまでもこの場に居合わせているだけで、彼女自身はこの店の正規の人間という訳では無いのだから。
 どうしたものかと考えている間に、驚きの感情を孕んだ声が響いた。
「ミシェル……!?」
 マルセアに呼ばれて店に顔を出したコルテスが、呆然とした顔で立ち尽くす。ミシェルと呼ばれた女性はその姿を捉えると、安堵にも似た表情を浮かべて言葉を漏らした。恐らく、その場に居たほぼ全員に衝撃が走ったであろう言葉を。
「お母さん……!」
「お、おか」
「おかあさん!?」
「――――」
 三者三様の反応を見せる弟子達に、コルテスは僅かに困った顔をして娘に向き直った。
「久し振りですね、ミシェル。貴方が訪ねてくるとは思っていませんでした。元気そう……とは言い難いですね。見た所、何かあった様ですが訊いても構いませんか?」
「ええ。その為に此処へ来たんですから」
 頷くと、ミシェルは覚悟を決めて静かに口を開いた。
「カルザレナの魔女、です。お母さん。彼女が、復活しました」
「…………そう、ですか」
 重く、コルテスはそれだけを呟いた。エレインの顔が、困惑と動揺に彩られる。
「カルザレナの魔女、だと……?」
 その単語が持つ意味を知らぬスゥイティアとマルセアは、首を傾げる事しか出来なかった。それを理解しているコルテスは、努めて穏やかにその場の空気を切り替える。
「ひとまずは其方の方の手当てが最優先ですね。皆、手伝ってください」
「は、はいっ!」
 弟子達の声が重なる。
「ミシェル、貴方もですよ。貴方も無傷では無いでしょう、さあ座って」
「……お母さんには、誤魔化せませんね」
 観念した様に頷いて、ミシェルも促されるままにソファに身を沈めるのだった。


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