第3話 歓迎


 人通りの少ない路地を抜け、一行は繁華街の中に居た。
 賑わう町の中を巨大なパンダが闊歩しているという様はなかなかに強烈な光景だとリェンは思うが、町の人々が驚く気配は無い。どうやらこの状況は、日常の一環に含まれているらしかった。彼女が――――メイがこの辺りを主な行動範囲としているのならば、それも当然だろうが。
 町でも有名な存在の様で、あちこちから親しみの籠った声が掛かる。それは快活な少女の気性による物か、それとも彼女のペットの存在による物か。そんなパンダの背に揺られながら、理由も無くぼんやりと想像を巡らせる。
「メイちゃん、今日は散歩かい?」
「ううん、人を迎えに」
 イーフェイは会話を察知し、自主的に歩みを止める。軽い声掛けならばスピードはそのままに、逗留が必要ならば停止と、適宜判断している様に見えた。実の所メイが合図をしてコントロールしている可能性もあるが、真実が如何なる物なのかは判断が付かない。しかしイーフェイが利口なパンダである事には変わりがないだろう。
「なるほど。すると、あんたがその人だね?」
 ずい、っと顔を寄せられて、リェンは思わず身体を引いた。恰幅の良い女性は豪快に笑う。
「そんなに怯えなくても大丈夫さ。取って食ったりしないよ。見かけ通り、繊細みたいだねえ」
 何も言い返す事が出来ず、曖昧に笑って誤魔化す。彼女は活を入れる様に、リェンの背をばんばんと叩いた。かと思うと背後に並んでいた果実を数個手に取り、放り投げる。
「ほら、これを持っていきな。あんたの歓迎祝いだ」
 宙を舞った果実は綺麗な弧を描いた。そんな渡し方をされては手を伸ばさぬ訳にはいかず、慌てて受け止める。視線を落とせば、紅色のそれは瑞々しく新鮮である事が一目で知れた。
「おばさん、ありがと! 今晩のデザートが出来たわ。今度は、ちゃんと買いに来るね」
 メイの言葉を合図にして、再びイーフェイが動き出した。リェンは果実を抱え直すと、感謝の意を込めて頭を下げる。彼女は笑顔で手を振り、見送ってくれた。
「……気さくな人だね」
 彼女の姿が小さくなった頃、リェンはぽつりと呟く。彼女の様な人間には、あまり触れた事が無かった。多少強引な所がありつつも、不思議と嫌悪感を抱かせない。一挙手一投足から感じる温かさに、初めて出会った様な気さえする。それは流石に、大袈裟かも知れないけれど。
「この辺りに住んでる人は、皆良い人ばかりよ。凄く、お世話になってる。そんな風にね」
 そんな、とはリェンの腕に抱えられている紅い果実の事を指すのだろう。前を向いたままの彼女から表情を窺う事は出来なかったが、きっと穏やかな笑みを浮かべているに違いない。そう手に取る様に分かる程、彼女の言葉には感謝と温かさが籠っていた。
「ところで、これは何処へ向かっているんだい? 会社の方向とは、違う様な気がするんだけど」
「あれ、聞いてない? 今向かってるのは、本社じゃなくて支社ビルよ。特別執行課専用の、ね」
「専用ビル……そんな物が?」
 支社ビルが存在している事も驚きだが、それが特別執行課専用とは。益々謎の部署である。恐らく、社内でも知る者の方が少ない事は間違いない。大まかな業務内容こそ先刻聞いたが、それ以外の詳細は資料にさえも書かれていなかった。そんな謎に満ちた状態であれば、その実態が想像出来ないのも無理は無いだろう。
「ほら、見て! あれがウチのビルよ」
 不意に、メイが声を上げた。遠くに見えるビル群の一角を指差すが、立ち並ぶビルの中から彼女の指し示す対象を瞬時に見付ける事は困難を極める。
「……ええと、ごめん。どれを指してるのか、此処からじゃ分かりにくい」
「そうね。んーと、てっぺんが三角になってるヤツ、って言えば分かるかしら?」
「なるほど。それで分かった」
 率直に返事は返したが、動揺は禁じ得なかった。同じ長方形が並ぶ中で、唯一違う形状を持つ建物。それは、周囲のビルと比較しても群を抜いて高い。遠めに見ても目立つそれが、支社ビル――――それも、特別執行課だけの専用とは。
「ウチの部署は特殊にも程があるから、一般には伏せられてるし、支社扱いになってるの」
「一般に伏せられている部署の本拠地が一番高いビル、というのは少し疑問が生じるんだけど」
「うん、まぁ、それは否定しない。でもオフィスの他に資料の置き場とか個々の部屋とか、色々完備しようとしたらこうなっちゃったと言うか。別にあたし達が高くして欲しいって言った訳じゃないから」
 後半、彼女の声が固くなった様な気がしたが、気の所為だろうか。それよりも。
「ええと、今、『個々の部屋』って言った?」
「うん、言ったわよ。ウチの部署の人間は皆、あのビルの中に部屋を持ってるんだもの。仕事場であると同時に、自宅でもあるってワケ。オーケー?」
「オーケー、理解した」
「慣れるまでは迷ったりする事もそれなりにあるのが難点だけど、でも住み心地は悪くないって皆にも評判なのよ? きっとリェンも気に入ると思うわ」
「……ええと、それはもしかして」
 最後まで声に出来ないうちに、メイが清々しい顔できっぱりと言い切る。
「決まってるじゃない。つまり貴方も、お引っ越し確定」
 有無を言わさない引っ越し宣言に、リェンは呆然とする。質素な独り暮らしの身であるが故、住む場所が変わるといって格段に困る事は無い。しかし、幾ら何でも唐突すぎやしないだろうか。事前に通知を貰って然るべき案件であると思うのだが。
「家賃の事なら心配要らないから、安心して。住む為に必要な費用は全部会社が負担する事になってるの。その辺りの説明が不足していたのは、申し訳なかったけど」
「でも、皆が一緒に住んでいるって……家族は?」
「特別執行課の人間なんて、訳アリの巣窟よ。あたしも勿論、リェンも含めて、ね」
「――――」
 何かを口にしようと思ったが、上手く言葉に出来なかった。
 何でもない事の様に、彼女は言う。その難しさを、リェンは知っていた。未だに地底から抜け出せない身からすれば、それは地上で太陽を臨む様な眩しさに似ている。それが彼女の強さなのか、ただの強がりなのか、それは今のリェンには分からない。
「……君は何を、何処まで知ってる?」
 ぽつり、口を突いて出た問いは胸の内に生まれた本音だった。
 彼女は知っている。自分の秘めたる物を。棄てたつもりでいて、未だに引き摺っている物を。どの程度かこそ知らないが、彼女の発した言葉は、それに気付くには充分であった。
「そんなの、分からない。何処までの範囲かなんて、あたしが決められる事じゃない。あたしとリェンじゃ、考えている幅が違うから。あたしが全部だと思ってても、リェンにとっては半分にすら届かないかも知れない。だから、分からない」
「そうか。ごめん」
「なんで貴方が謝るの?」
 思わず口から洩れた謝罪に、純粋な問いが返る。表情は相変わらず窺い知れぬが、きっと目を丸くしている事だろう。それが容易に分かるほど、彼女の感情表現は真っ直ぐであった。
「分からない。分からないけど……」
 それ以上は、言葉にならなかった。自身でも表現しようの無い感情が、胸の内に渦巻く。
 複雑な思いを抱えた空気を置いていく様に、パンダがゆっくりと町を抜けていった。


 イーフェイはふたりを乗せたまま目的のビルの中へ入ると、広々としたロビーの中央で漸く足を止めた。メイは撥ねる様にその背から飛び降り、それに続いてリェンも恐る恐る離れる。
「ありがと、イーフェイ。ご苦労様。後で美味しい物、御馳走するからね」
 首周りをしっかりと抱き締めて、メイは頬を摺り寄せる。それに応える様に目を細めると、イーフェイは再び歩き出した。その背に大きく手を振って、メイは見送る。
「彼は、何処へ?」
「決まってるじゃない、自分の部屋よ」
「……へ、部屋?」
「イーフェイだって家族なんだから、専用の部屋ぐらいあるわ」
 パンダ用の個室という展開は、流石に考えが及ばなかった。しかし先刻の様子を見る限りでは彼自身、自室を認識している事は間違いない。人語を解している素振りも含め、総じて知能が高いのだろう。イーフェイが特別なのかどうかは、分からないが。
 ――――と。
「あら、お帰りなさい」
 不意に聞こえた第三者の声に、リェンは視線を動かした。ロビー奥の大階段から降りて来る、女性の姿が視界に映る。長い髪を纏めて高く結い上げ、淡い色のスーツを着こなした美女だ。
「お、イーフェイじゃん! 帰って来てたのかよ!!」
 そんな声がしたかと思うと、声の主は女性の横を擦り抜けてイーフェイに駆け寄っていった。見るからに元気一杯、といった形容が似合う少年だ。年の頃はメイより少し上、といった所だろうか。しっかりした雰囲気を持つメイと対照的に、彼は年相応とも言える無邪気さを持っていた。
「……劉 ( リュウ ) !」
 彼に気付いた女性が諫める様に名を呼んだが、当の少年はイーフェイの背に抱き付いてその毛並みを満喫している様だった。自室に帰る筈のイーフェイも、歩みを止めてされるがままだ。
 その様子を一瞥してひとつ溜息を零すと、それで気持ちを切り替えたのだろう彼女は、リェンの傍までやって来ると片手を差し出した。
「貴方がリェン・ホンさんで間違いないかしら? 初めまして、私は王香 ( ワン・シャン ) 。特別執行課の一員よ。これからお世話になると思うけれど、どうぞ宜しく」
「此方こそ、宜しくお願いします」
 慌てて手を出し、握手を交わした。メイが責任者という点には驚いたが、同年代の女性が居るというだけで安心感が違う。しかし、今の少年は一体。そう思った瞬間、無意識に視線が向いてしまったのだろう。彼女――――シャンも、同じく彼を一瞥する。
 少年は、イーフェイの背に乗ってはしゃいでいた。乗ってみて分かったが、確かにあの感触は心地良い。彼が背にしがみ付く気持ちは、理解出来た。
「リュウ、いつまで遊んでいるの。挨拶なさい」
 まるで母親の様だと思ってしまった事を知ったら、彼女は怒るだろうか。そんな馬鹿な事を考えていられたのも、一瞬の事であった。リュウと呼ばれた少年は、一転して不機嫌そうな表情を見せる。其処に含まれた睨む様な視線に、リェンは思わず身構えた。
「何で俺が挨拶なんかしなきゃなんねぇんだよ」
「初対面でしょう、挨拶を交わすのは当たり前よ。これから一緒に働く仲間とは言え、それくらいの礼儀は弁えなさい。此処に居る以上、まだ子供だからという理論は成立しないわ」
「こんな奴に挨拶なんて要らねぇよ!」
「貴方の事情なんて知ったこっちゃないわ。貴方がどう思おうと、礼儀は礼儀よ」
 一蹴。流石の少年も、それ以上の反論は見付からなかったらしい。渋々とイーフェイから降りて、彼はリェンの傍までやって来た。ずい、と左手が差し出される。
「劉英真 ( リュウ・インツェン ) 。俺は、お前なんか認めてないから」
 敵意剥き出しの声に、リェンは戸惑いつつも握手を交わした。あまりにも真っ直ぐな反発の感情に、困惑は深まるばかりだ。彼の生み出す感情の理由が、どうにも掴めない。
「気にしないで、勝手に敵視しているだけだから。急に大人が増えて不満なんでしょう」
 シャンの言葉を、リェンは素直に受け止める事にした。まだ十代も前半の少年には、色々と思う事があるのだろう。所謂、難しい年頃という奴だ。実際彼が何を思ってそんな態度を表したのかは、これからの付き合いで少しずつ知ってゆけば良い。
「ウチの課はあとひとり居るのだけど……っと、後ろに居たのね」
 自らの背後を振り向いたシャンが、服を引っ張る様にしながら背に隠れる少女を抱き寄せた。
「この子は桐蕾明 ( トン・レイミン ) よ」
 紹介されたのは、可憐な少女であった。未だシャンの服を掴んで揺れる視線を浮かべている彼女は、メイとそう変わらない年頃の様だ。しかし溌溂なメイに対し、淡く消え入りそうな彼女の方が幾分か幼く見える。もじもじとしながらも小さなお辞儀をしてみせた彼女――――レイミンは、消え入る様な声で呟いた。
「……よろしく、おねがい……しま、す」
「これが特別執行課の全メンバーよ」
 メイがそう締め括る。リェンは、呆然と純粋な瞳を見返した。
 たった、四人。リェンが加わっても、五人にしかならない。中でも大人と言えるのはふたりだけで、残りは子供。その事実に、リェンは驚愕する。
 だいたい、メイが責任者を務めている事にも疑問があったのだ。そこへ追加する様に子供が増えた。この会社の労働基準は一体どうなっているのだろうか。そう、思わざるを得ない人事だ。
「さ、リェンはあたしに付いて来て。貴方の部屋を用意したのよ」
 考える事さえ許されない程のスピードで、事態は次へ次へと進んでゆく。それに必死に食らい付かねば、振り落とされてしまうだろう。今はただ、少しでも此処での環境に、そして生活に、慣れるしか無い。リェンはそう、自身に言い聞かせる。
 その心中に浮かぶのは、これからも頻繁に起こるであろう突然の事態に動じない精神を鍛えなければ、という決心に他ならなかった。


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