第4話 迷宮と祝宴


 特別執行課専用ビルの中は、迷路かと思うくらいに入り組んでいた。
 歩いているだけで方向感覚を狂わせてゆく様に、曲がり角が無駄に多い。まるで迷路の中を進んでいるかの様だ。馴染みの無い物が単独で出歩こう物ならば、混乱を極める事は必至だろう。流石に慣れているらしいメイは寸分の迷いも無く突き進んでいた。
 その後を追うリェンは最初こそ道を覚える事に集中していたが、それは無駄な努力に終わった。そんな余裕は、何度目かの角を曲がった時に消え失せたのである。完全に、自分がどの方向に向かって歩いているのかが、突如分からなくなったのだ。
「……よく覚えられたね、道」
 溜息と共に呟いた言葉に、メイはあっけらかんと言い放つ。
「慣れよ、慣れ。道自体は複雑じゃないから、要所要所のルートを覚えれば辿り着けるし。ま、こればかりは時間を掛けてでも覚えて貰うしか無いかも」
「でも、どうしてこんな」
「此処へ来る途中に言ったでしょ。皆、訳アリなの。だからこれは、その対策みたいな物よ。これだけ複雑な作りにしておけば、もしも侵入者が来ても大丈夫ってコト」
「侵入者、って……」
 現在もその可能性が存在する状況に置かれていたというのは、一体どういう素性による物なのだろう。それは今のリェンには知る由も無いが、大多数が子供という現状を考えると、それは到底看過出来る話では無い。それも含めて、なのだろうか。リェンが此処へと配属されたのは。
「勿論、全員が全員って訳じゃないよ? それでも念には念を、ってね」
 フォローを入れる様にそう言って、不意にメイは足を止めた。
「気持ちは分かるけど、今あたし達は此処でそれなりに楽しくやってる。だから、あまり詮索はしないコト。誰にだって、知って欲しくない事のひとつやふたつあるんだから。そうでしょ?」
「あぁ。そう、だね。気を付けるよ」
「オッケー。じゃ、そういう事で此処がリェンの部屋よ!」
 シンプルなドアを開いて、メイが元気に宣言する。促されるままに部屋へと足を踏み入れたリェンは、呆然と室内を見渡した。狭いアパートの一室の様な物を想像していただけに、目の前に広がる部屋はリェンの想定を超えていると言える。
「必要最低限の家具だけは用意してあるけど、必要な物があったら遠慮なく言って?」
 メイの言う通り、クローゼットとベッド、テーブルや椅子などの調度品は一通り揃っていた。逆に言えばそれだけで、引っ越した直後の様な殺風景さは否めない。それもこれも、ひとり部屋である事が信じられない程の広さ故の事だろう。僅かな品数の家具が広々とした空間にあるのみでは、そう感じるのも無理は無い。そう、リェンはしみじみと思う。
「どうしたの、何か不満でも?」
 無言で立ち尽くすリェンを不審に思ってか、メイが問い掛けた。
「いや、不満どころか僕には勿体無いくらいの部屋だよ。正直、圧倒されてる」
「なら良かった。引っ越しは必要でしょ? あたし達も手伝うから、近いうちにやっちゃいましょ」
「引っ越し……」
 つまりは此処に住む事は確定、という事か。あの依頼を請けた時点で全ての物事は決められていて、他の選択肢は初めから設けられていないのだろう。勿論、それが不服と言う訳では無いが。ただ、素直に受け入れてしまうのが少々難しいだけで。
 多少強引と言わざるを得ないが、それでも嫌な気分を抱く事は無かった。それだけが救い、なのかも知れない。驚きはするけれど。
「詳しい事は後で相談ね。今日は部屋でゆっくり休んで? 何かあったら電話使って。番号は横のメモ参照ね。あと、夕飯になったら迎えに来るから」
 早口で言いたい事を並べ立てた後、メイはぶんぶんと手を振って嵐の様に去っていった。
 ひとりきりになった部屋は、妙な静けさを残している。メイと出会ってから、僅か数時間。その間に、どれだけの事が起きただろう。パンダに乗って移動して、特別執行課のメンバーに会って、その大半が子供で。迷路の様な廊下を進んで、そうして今に至る。振り返ってみれば大した事が無い様な気もするが、どれもが意外性のある物ばかりだったのは気のせいでは無い。きっと。
 思えば以前の部署に居た頃は、毎日が同じ事の繰り返しだった。それが苦痛であった訳ではないけれど、特に大きな変化が起きる事は無く、穏やかに日々が過ぎるだけ。しかし此処での生活は、その真逆をいくのだろう。そんな確信が、あった。
 改めて、リェンは部屋を見渡す。窓からは、麗らかな陽の光が差し込んでいた。この部屋の窓は外部に面している壁がそのままガラス張りになっている代物で、最早「窓」という表現が正しいのか疑いたくなる程の物だった。そっと傍によって、眼下に広がる町を眺める。
 下手をすれば落下も免れない。そう思えば多少の恐怖は覚えたが、其処から見える景色はリェンの知る町並みと何処か違って見えた。リェンの知るこの町は、決して治安が良いとは言えない。それでも人々は精一杯にそれぞれの人生を全うしている。危険と隣り合わせでありながら、それでいて暖かな場所。それらを見下ろす事で、町を掌握したかの様な錯覚を起こさせた。
(……何だか、疲れたな)
 慣れない事が続いた所為で、無意識に疲労を溜め込んでいたのかも知れない。ひとりになった事で緊張の糸が解れ、それが漸く顔を出して来た様だ。
 腕時計に視線を落とす。本来ならば活動時間真っ只中の時刻ではあったが、今ならば多少の仮眠も許されるのだろう。既に用意されていたベッドに身体を沈め、ゆっくりと目を閉じた。


 連続的なノック音が、次第に意識を覚醒させてゆく。霞んだままの眼が捉えた天井の高さに、慣れ親しんだ自宅では無い事を思い出す。まだ回り切らない意識の中でふわりと蘇る記憶に若干の困惑を覚えつつ、リェンはベッドから降りた。その間にも、ノックは小刻みに続いている。
「今、開けるから」
 扉の向こうに声を掛けて、ノブに手を掛ける。鍵は掛けていなかった事を思い出したが今更だ。扉を開けば、其処には想定通りメイの姿。彼女は此方を真っ直ぐに見上げて、瞬きをした。
「起こしちゃったみたいね」
 一目見ただけで分かる程の顔をしているのだろうか。僅かにそんな思いが過ったが、顔を合わせてしまった以上どうする事も出来ない。リェンは素直に頷いた。
「ごめん。気付いたら、つい」
「気にしないで。休んでって言ったのはこっちなんだから。寝起きの所悪いけど、夕飯のお迎えよ」
「……夕飯」
 そう言えば、案内された時にそんな事を言っていた気がする。気付けば窓の外もすっかり夕暮れの色に染まっており、室内を温かな光で満たしていた。
「お腹空いたでしょ? 今日は貴方の歓迎会だから、ご馳走いっぱい用意したのよ」
 うきうきとした口調でそう言うと、メイは迷わずリェンの手を取った。引っ張られる形で室内を出たリェンは、されるがまま再び迷路の様な廊下を移動してゆく。部屋へと向かった時とは違うルートを進み、辿り着いたのはメイ曰く「食堂」との事だった。
 食堂と一口に言っても、主に一同が食事を摂る際に使用しているからという理由で、広々とした空間に長テーブルと人数分の椅子が用意されているだけだ。他の使い道があるのではないかとさえ思う程だったが、新参者のリェンが口を出せる様な事では無いだろう。
 長テーブルの上には既に沢山の料理が並んでおり、どれもほかほかと湯気を昇らせていた。リェン以外の面子は既に揃っており、今か今かと食事の時を待ち侘びているかの様だ。
「さ、早くご飯にしましょ。折角の料理が冷めちゃう」
 リェンの腕を引っ張って所謂誕生日席まで連れて来ると、メイは椅子を引いた。
「さぁどうぞ。此処が今日のリェンの席よ。貴方の歓迎会だから、一番の特等席を用意したわ」
「……ありがとう」
 素直に礼を告げて、リェンは席に着く。幾ら今日から世話になる身だからといって此処までして貰う必要は無いのだが、これら全てが好意である事はリェン自身理解していた。此処で拒否の意を示す事は、そんな彼女達の思いを踏みにじる事になる。故に、何も言わず受け入れる事にした。
 各自グラスに飲み物が注がれると、メイが立ち上がった。高らかにグラスを掲げ、宣言する。
「リェン、特別執行課へようこそ。あたし達は貴方を歓迎するわ。明日から早速お仕事が待ってるんだから、今日は思う存分寛いじゃって! じゃ、乾杯!!」
「乾杯!」
 一斉にグラスを掲げ、その中身を飲み干す。そうして宴は始まった。
「いっぱい食べてよね。味の保障はバッチリだから安心して!」
 メイは言って、料理を勧める。その足元では、いつの間にかやって来ていたイーフェイが食事を満喫している。彼の前に置かれたプレートには肉やら野菜やら、山の様に盛られていた。
(……やっぱり、普通のパンダでは無いって事かな)
 特別執行課には、まだまだ謎が多い。その存在も、面子も。だがしかし、初日で全てが分かる筈も無いのだ。少しずつ知っていけば良い。仕事の事も、皆の事も。
 リェンは深く考えるのを止め、料理に手を伸ばした。今は、考える時では無い。この場を楽しむ時なのだ。今日ばかりは、少しくらい羽目を外しても構わないだろう。
 そうしてその祝宴は、遅くまで続いた。


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