第5話 初めての朝


 身体にずっしりと圧し掛かる重みに息苦しさを覚え、リェンは目を覚ました。霞掛かった頭で周囲を探ろうとする間もなく、降って来たのは明るい朝の挨拶だった。
「おはよ。良い夢は見られた?」
「……おはよ、う?」
 反射的に挨拶を返して、ばちりと合った視線に意識が覚醒する。
「ど、どうして君が此処に!?」
 飛び退こうとしたが、それは阻まれた。真っ直ぐにリェンを見下ろしている少女の体重が、動きを完全に封じていたからだ。行儀よく座る姿は上流階級のお嬢様の様だが、つい先刻まで夢の中に居た人間を下敷きにしている事を思うと褒められた話では無いだろう。
「ノックはしたわよ。それで反応なくて、どうしようかと思ってたけど鍵が開いてたから。幾ら自分の部屋だからって安心しちゃ駄目よ? ちゃんと鍵、付いてるんだから。利用しなきゃ」
「それは、ごめん。今度から気を付けるよ。ええと、ところで……重いんだけど」
「女の子に重い、だなんて男性失格よ。レディの扱いとしては一番やっちゃいけないパターンね」
 ぷうっと頬を膨らませて、メイは言う。本気で怒っている風では無かったが、確かに失言であった。女性は何歳であろうとレディに違いないのだ。そう、誰かが言っていた気がする。
 ただ、眠りから覚めたら少女が自分の上に座っている、などという状況下に置かれては言葉を選んでいる余裕は無かったと思うのだが。しかし、それを言葉に出す事は憚られた。
「言い方が悪かったのは謝るよ。ごめん。でも、この状態だと起き上がる事も出来ないんだけど」
「……そうね。あたしはただ、注意してって言いたかっただけだし」
 謝罪が功を奏したのかは分からないが、メイは素直にベッドの上から降りた。腹の辺りに掛かっていた重力から解き放たれて、身体がふわりと軽くなった様な錯覚を覚える。もう少し横になっていたい気分ではあったが、そうすると逆襲されそうな予感がしたので諦めて半身を起こした。
「もしかして、疲れてる?」
 不意に掛けられた声に、リェンは目を丸くする。それは、予想外の問い掛けであった。
「そんな事は無いと思うけど……どうして?」
「あたしが乗っかっても、全然起きる気配無かったから。随分と深い眠りっぽかったし。昨日の今日だし、慣れない所だし、色々と疲れてるのかなぁって思っただけ」
「確かにちょっと混乱する事もあったし、頭の中が整理出来ていない事でいっぱいだけど、でも疲れとはまた違った感覚だと思うんだ。心配掛けて、ごめん。大丈夫だから」
「そう? リェンがそう言うならそれ以上は言わないけど。でも、何かあったら言ってよね」
「うん、ありがとう。それより、何かあった? 寝坊……では無いと思うけど」
 時計に視線を向けて、問う。事前に伝え聞いていた時刻よりは、早い。わざわざメイが訪ねて来たという事は、何かあったのだろうか。
「ううん、大した事じゃ無いんだけど。仕事が入ったからご報告にね。あと、まだ道に慣れて無いと思ったから案内も兼ねて来てみただけ。ちょっと早すぎたかも、だけど」
「いや、そんな事は無いよ。どの道、そろそろ起きようと思っていた時間だし」
 フォローを入れつつ、リェンは布団から抜け出す。
「すぐに着替えるから、少し待ってて」
「ん。じゃあ、外で待ってる」
 そう言い残すと、ぱたぱたと軽やかな足音を立ててメイは扉の向こうへ姿を消した。彼女を待たせる事の無い様に、手早く着替えを済ませる。現在のモデルルームの如き部屋に鏡は無かったが、手早く身なりの確認をしてから寝室の扉を開けた。
 すると、行儀よく椅子に座っていたメイが、驚いた様に目をぱちりと瞬かせる。
「本当に早いのね、びっくりした」
「まぁ、女の子よりはね」
 不思議な物を見る様な視線に苦笑しつつ、リェンは言う。これが逆の立場なら、暫く待たされていただろう事は容易に想像出来た。それを知ってか知らずか、メイはふぅん、と呟いて立ち上がる。
「さ、行きましょ。朝ご飯は準備してあるから、道中食べていきましょ」
「え……道中で、朝ご飯?」
 それはつまり、食べながら移動をするという事だろうか。
 困惑するリェンをよそに、メイは部屋の扉を開ける。その先に見えたのは、白と黒の物体だった。
「イーフェイ……?」
 それは、昨日初めて対面したパンダであった。イーフェイという名を持つ、メイの相棒。
「さぁ乗って。これで移動とご飯、一石二鳥よ。あ、仕事の話も出来るから一石三鳥、かしら」
 何の疑問も抱いていない様子で、メイはイーフェイの背をぽんぽんと叩く。断る選択肢などリェンには無く、昨日に続いて素直にイーフェイの背中にお邪魔する事にした。
 メイも乗った事を確かめると、イーフェイはゆっくりと動き始める。相変わらず利口なパンダとしか言い様が無い。リェンが感心していると、イーフェイの首元に結ばれた風呂敷の中身をメイが漁り始めた。何が始まるのかと呆然としていたリェンに、小さなバスケットが差し出される。
「はい、朝ご飯。それがリェンの分よ」
「あ、ありがとう……」
 受け取って、膝の上に置く。蓋を開ければ、その中に入っていたのは小さなおにぎりと卵焼き、唐揚げにミニトマト。さながらピクニック用に拵えられたお弁当の様だ。
「今日はシャンが担当だったから、リェンとあたしは特別にお弁当風にして貰ったの。昨日の料理でも分かってると思うけど、味の保証はバッチリよ。さ、召し上がれ」
 促されるまま、リェンはボリュームたっぷりの朝食に手を付け始めた。
 恐らく、こうして移動中に食べる事を見越しての注文だったに違いない。それだけ大量の仕事が舞い込んで来た、という事なのだろうか。予定よりも早くリェンを起こし、仕事場に連れて行かねばならない程の。そもそも、特別執行課の仕事とは――――?
「ところで、仕事っていうのは?」
「あぁ、それね。今回はリェンの得意分野だと思うから、ばんばん働いて貰っちゃうわよ?」
 揶揄う様な笑みで振り向かれて、リェンは戸惑う。その困惑すら楽しむ様に、メイは続けた。
「経理課で手が回らなくなった書類の整理ですって。結構な量に膨れ上がっちゃってるみたいだけど、もしかして貴方が抜けちゃった所為だったりするのかしら」
「それはどうだろう。僕は格別に有能って訳じゃなかったし、それは幾ら何でも買い被りすぎだよ」
「そうかしら。でも、リェンなら慣れてる仕事でしょう? 頼りにしてるからね!」
 期待の眼差しに、リェンは苦笑する。昨日の今日で、古巣の仕事を手伝う事になろうとは。予想外もいい所だ。しかし、お陰で積年の謎が解けた。嘗て経理課に所属していた際、とても手に負えない量の書類があっさりと片付いたその訳が、漸く明かされた格好だ。
「……本当に、何でもやるんだね」
 呟いた言葉は、感心なのか呆れなのか。それはリェン自身にも分からなかった。


 バスケットの中身が空になる頃、イーフェイがひとつの扉の前で立ち止まった。
「今日のお仕事場所は此処よ。さ、降りて。バスケットは預かるから」
 言われるがままにバスケットを手渡し、イーフェイの背から滑り降りた。メイもそれに続き、扉を開く。その向こうに広がっていたのは、ごく普通のオフィスだった。人数分のデスクが並び、その上には数十センチにも及ぶ書類の山が積み重なっている。つい先日まで見ていた光景だというのに何だか懐かしさが込み上げて来て、リェンは不思議と安心した。
「業務そのものについては細かい説明は不要だと思うけど、何かあればシャンに訊いて。あたしは別件の後片付けを済ませたら戻るから。宜しくね」
「あ、あぁ、うん。頑張るよ」
 ぶんぶんと手を振って、メイは扉の向こうへ消えていく。閉まりゆく扉の向こうで、イーフェイが後を付いていくのが見えた。それが当たり前、とでもいう様に。
「ふたりでひとり、って事なのかな」
 ぽつりと呟いた言葉に、返る声があった。
「そうね。的を射てると思うわ。どちらにとっても、無くてはならない存在なのよ」
「……シャンさん」
 彼女の名を、呼ぶ。シャンは穏やかに微笑んで、言葉を続ける。
「私達にも計り知れない絆があるんだわ、きっと。大切な家族だ、ってメイは言ってたもの」
「家族……」
 薄らと、思い出した。此処へ来る途中の、メイの言葉――――特別執行課に属する者は皆、訳アリなのだ、という一言を。明るく笑うメイも、リュウやレイミンの様な子供達も、そして目の前に居るシャンも。例外では無いのだろう。無論、リェンも含めて。
「っと、今はお仕事よね。でも、貴方が居てくれたら百人力だと思うわ」
「…………あの」
「なぁに?」
 ふんわりと、柔らかな声が返って来る。リェンは喉まで出掛かった言葉を飲み込んだ。不躾にも程がある、そんな問い。昨日知り合ったばかりの相手に対して言うべき物では無い。
 ――――貴女はどうして此処に居るんですか、など。
「あ、その、仕事についてお聞きしても?」
「ええ、勿論。……と言っても、これに関しては貴方の方が詳しいんじゃないかしら」
「そう、ですね。ええ、そうかも知れないです」
 急遽逸らした話題が、発展する事は無かった。それでも、これで良いのだ。今は、変な詮索などするべき時では無い。もしも彼らの理由を知る事があるとしても、それは今では無い。
「ええと、席は何処でしょうか」
「指定席は無いから、空いてる所なら何処でも大丈夫よ。作業量も大して変わらないから」
「分かりました。では、此処で」
 一番近い席を選んで、着席する。デスクの座り心地は経理課に居た時と変わらず良好とは言い難かったが、それでも妙な懐かしさを起こさせる。昨日までも、座っていた筈なのに。
「もし何かあったら言ってね。私達も、貴方にご教授お願いする事があるかも知れないけれど」
「はい。僕がお役に立てる様な事であれば、幾らでも」
「まぁ、頼もしいわ。それじゃあ、宜しくね」
 ひらひらと手を振って、シャンはリェンの横の席に座る。
 リェンは両頬をぱちりと叩いて気合いを入れ、山積みになった資料に手を伸ばした。


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