第6話 初仕事 「メイ。少し、いいかしら」 静かな声で呼ばれて、メイはくるりと振り返った。その瞳に映ったのは、僅かに困った様な表情を浮かべるシャンの姿。その顔に、何か問題でも起きたのかと自然と眉根が寄ろうとする。意識的にそれを封じ込めて、メイは努めて明るく問い掛けた。 「なに? どうかした?」 「これ、来てたわ」 短い一言と共に差し出された紙に、メイはすぐさま状況を察した。社長直筆のサインに、本来の業務では使われない種類の印鑑。特別執行課にのみ与えられる告知文書だ。 「早速来たのね、特殊業務。タイミング的にも、実力を試す為……って所かしら」 用紙を受け取り、文字の羅列を目で追う。上手く働こうとしない意識をフルに活動させながら、メイは何とか記載されている内容を頭に叩き込んだ。 「難しい案件じゃないみたいだし、これなら穏便に済ませられるんじゃない?」 「ええ。あの御方の無理難題が炸裂しない限りは、ね」 「……まぁ、何とかなるでしょ」 シャンの一言に苦笑して、メイはデスクに資料を置いた。息を吐き出して、気持ちを整える。 「彼の事が心配?」 何処か揶揄する様な響きを纏った声が、飛んで来た。此方の表情を的確に読んでいるとしか思えないその調子に、メイは舌を巻く。彼女の観察力が優れているのか、それとも長年付き合いがあるが故の察知能力なのか。何にせよ、シャンには感情をすぐに読まれてしまう。 「此処に配属された以上、いつかは彼もやらなきゃならない事よ。慣れるなら早い方が良いわ」 「ん、分かってる。覚悟は決めた」 宣言すると、メイは気合いを入れる様に頬をぱんぱんと叩いた。気持ちを切り替える様に一息吐いて、心を落ち着かせる。全ては分かっていた事だ。今更悩んだ所で仕方が無い。やるべき事を、ただやるだけだ。そう、自身に言い聞かせる。 「これが本当の意味での初仕事になる訳よね。素敵な出だしにしてあげないと。でしょ?」 「ええ、そうね。その調子よ、メイ」 シャンの励ましを受けながら、メイは自分自身を鼓舞するのだった。 特別執行課移動になっての初仕事が前日まで行っていた仕事とは。慣れた手付きで書類を捌きながら、リェンは改めて思う。無論、懐かしさには程遠い。まるで異動になどなっていない様な、そんな錯覚さえ覚えてしまう程だ。黙々と手を動かしながら、リェンは次々と書類に目を通していく。 そうして最後の書類を片付けた時、明るい声が部屋に響き渡った。 「お疲れ様ー」 部屋に戻って来たメイが、ぱたぱたと軽快な足音を立ててリェンの許へとやって来る。そうして机の状況に目を見張った。 「凄い、もう終わりなの? やっぱり、有能って話は本当なのね」 「さっきも言ったけど、そんな事は無いよ。ただ、慣れた作業だっただけの事で」 一体誰からそんな評価を聞いたのだろう。気にはなったが、返答が怖くて止めた。 無能者と謗られるよりは、充分に有り難い評価を貰えているのだろう。しかしどうにもこそばゆい。身に余る評価だと、そう否定してしまう自分が確かに居る。他人からプラスの評価を与えらる事に慣れていないから、なのだろう。そう思い至って、内心苦笑する。 「じゃ、区切りの良い所で一緒に来て貰える? 他の面子は皆揃ってるから」 言われて、隣に座っていた筈のシャンの姿が消えている事に気付いた。退席した事にすら気付かないなんて、どれだけ作業に集中していたのだろうか。 「……仕事がね、来たの。ウチの部署にだけ来る、特殊業務の話」 ぽつりと、メイが呟いた。リェンは彼女の言葉を、黙って聴く。無駄な相槌は必要無いと、声のトーンから悟ったのだ。年相応に明るい姿ばかりを見ていた彼女からは、想像していなかった声音。何処か仄暗さを感じるそれに、胸が締め付けられる様な思いがする。 けれど、それは一瞬だった。すぐにいつもの調子に戻ったメイが、部屋の外を指差して笑う。 「こっちよ。今回はすぐ着くから安心して」 また迷路の様な廊下を動くのかと身構えたが、それは杞憂に終わった様だ。オフィスを出てすぐの所にある、小さな会議室が目的地であった。扉を開けば、ふたり以外の全員が――――イーフェイも含めて其処に揃っていた。 「お待たせ。リェンは空いてる席に座って?」 促されるまま、リェンは身近な椅子に腰を下ろした。隣にはシャンが、向かい合う様な形でリュウとレイミンが座っている。それと同時に、メイは机に置かれた資料の前に立った。 「早速だけど本題に入るね。皆知ってると思うけど、特殊業務の依頼が入ったわ。今回の仕事は、ウチの会社の重役の警護ですって」 「重役ぅ? それって誰だよ」 不満気なリュウの問い掛けに、メイは手元の資料を捲る。 「んーと、副社長」 「マジかよ! 俺、あのオバサン嫌いなんだよなぁ」 「リュウ君……」 窘める様に、レイミンが彼の袖を引いた。それに気付いたリュウはそっぽを向いて頬を膨らませる。 「だって俺達のコト否定的じゃんか! 警護だって何度かやってやったけど、無茶苦茶こき使われるだけれで礼のひとつも無しだぜ? 子供の分際で、とか思ってるんだって! 絶対!!」 「でも仕事だから。やるしか無いの」 キッパリと断言するメイに、リュウはそれ以上何も言えない様だった。ただ悔しそうに、黙り込む。そんな彼の気持ちも分かるのだろう、メイは困った様に笑った。 「今回は、我慢する事が一番の仕事。大変だし、辛いかも知れないけど、出来るのはあたし達しか居ない。だから、頑張ろう? 頑張って、あたし達が居る意味に気付かせてやるの」 「……しゃあねぇな」 「ありがと」 「言っとくけど、アイツらの為じゃねぇからな! 俺達の為だ!!」 「分かってるよ」 そんな遣り取りを、リェンは微笑ましいとすら思う。まるで仲の良い兄妹の様だ。いや、姉弟と表現すべき方が正しいのかも知れない。年齢こそリュウの方が上だが、先刻の会話はどう見てもメイの方が年長に見える。それは、彼女が若いながらも責任者である事に所以しているのだろう。 「明日、副社長が提携企業の社長と娯楽施設を訪問するの。それを警護する、ってワケ」 「てか、社長はどうしたよ」 「今進めてる別プロジェクトの方が大事なんでしょ。いつもの事よ」 「勿論社長が出る事もあるけれど、基本的にウチの接待担当は寧ろ副社長の方よ」 メイとシャンに次々と言葉を返され、リュウは黙り込んだ。失言、だったのかも知れない。 「だいたい、何で娯楽施設なんだよ?」 「何でも、訪問先の経営者が傘下に入るみたい。ま、その視察でしょ」 資料を参照しながら、メイは言う。どうやらこの会社は、一般社員の知らぬ所で手広く動いているらしい。李公司 ( リー・カンパニー ) と言えば充分に名が知られ、世間にも影響力を持つ大会社と言われている。既に名声を得ている様な物だが、それではまだ飽き足らぬというのだろうか。 「配置は副社長の傍に三人、遠方に残りで良いんじゃないかしら。あたしとシャン、それからリェンにも傍での警護を頼みたいんだけど」 「了解」 あっさりと頷いたシャンに対し、リェンは返答出来ずにいた。 「……ごめん。出来る事なら、遠方警護に回して貰えないかな。悪いけど、僕は」 「警護に自信が無い? まぁ経理担当だったんだから荒仕事は向いてないと思うけど」 「いや、そうでは無いんだ。そうでは無いんだけど……」 どう説明して良い物か。分からない。全員の視線を一身に浴びながら、リェンは言葉を濁す事しか出来ない。説明したいが、出来ない。そのもどかしさが、胸を支配する。 「そんなの、認められねぇよ」 吐き捨てる様な厳しさで、リュウが言葉を漏らす。苛立ちとも嫌悪とも取れる鋭い視線が、真っ直ぐにリェンを射抜いた。隠す事を知らない、素直な感情がストレートに届く。 「理由も無しに任務から逃れようだなんて、許されねぇんだ。どうしても、って言うならちゃんと説明してみせろ。納得のいく理由なら、こっちも認めてやる」 彼の言葉は、正論だ。何も話さず自分の意志だけ通すなど、出来る筈が無い。此処は、腹を括って身を曝け出す道しか無いのだろう――――しかし、何処まで? 「彼女は……副社長は、僕を快く思っていない。視界に入る事も彼女が許さない筈だ。傍で護衛なんて、もってのほかだろう。穏便に仕事を進める事が一番なら、不必要な刺激を与える必要なんて無いんじゃないかな。そうだろう?」 「ちょっと待って。貴方を快く思わないなんて、どうして言い切れるの?」 「そうだよ。あのオバサン、嫌いなモンが多すぎるんだ。好かれる方が珍しいっての」 次々と上がる声に、リェンは首を振る。 「面と向かって言われた事があるんだ。たった一度だけだったけれど」 その呟く様な一言に、その場に居た者は揃って言葉を飲んだ。たったひとり、メイを除いて。 「貴方……副社長に会った事があるの?」 恐る恐る、といった体でシャンが問う。その反応は尤もであった。 特別執行課はその業務性ゆえに彼女と対面する機会も存在する。しかし、彼女は社員の前になかなか姿を見せないし、会話をしようともしないのだ。経理課などという、ごく普通の部署に居たリェンが副社長と会話する機会など、存在しないと言っても過言では無い。 更には直々に嫌いだと認定された人物など、何処に居るだろうか。 「この会社に入る時に、一度だけ」 「信じられない……」 彼女の気紛れなのか、それとも。それすら見当が付かないのだろう。それが、当たり前の反応。 「いいわ。今回は私とリュウで何とかしましょう。いいでしょう、リュウ?」 「なんだよ、結局俺かよ!」 「文句言わないの。仕事でしょう?」 ばさりと切り捨てて、シャンはメイに視線を送る。 「これで良いかしら?」 反論の意は無いと、メイは頷いた。こうして、簡単に結論は下されたのである。 |
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