第8話 平穏の時


 二台の車が目的の娯楽施設内へと到着する。広々とした駐車場には既に、経営者と思しき初老の男性の姿があった。彼は此方の車を認識すると、深々としたお辞儀で出迎える。今日は特別に貸し切り扱いとなっているらしく、辺りに一般客の姿は見えなかった。
「ご足労頂き、ありがとうございます」
 車を降りたヤンリンに再度頭を下げる男性に対し、ヤンリンは穏やかに言葉を発する。
「ご無沙汰しております。施設の方は如何です? 順調かしら?」
 上品さの窺える振る舞いは、先刻までの彼女とはまるで別人だ。社内での姿しか知らないリェンにとって、それは衝撃的な光景だとも言える。傲岸不遜なだけの人物だと思っていたが、状況に応じて対応を変える技能は持ち合わせていた様だ。だからこその副社長、なのかも知れない。社外の対応は全て彼女の仕事、とさえ言われるだけの事はある。
 様々な人材と取り引きをするには、彼女の様な人材が必要なのだろう。本来の性質としては社内の姿がそうなのだろうから、そういった意味ではあまり褒められた物では無いのだろうが。
「驚いた? 彼女は、ああいう人なのよ。表と裏、なんて言うのもどうかと思うけど……外交となると人が変わるの。流石と言うか、何と言うか」
 余程ぽかんとしていたのだろう。苦笑しながらシャンがこそりと耳打ちしてくれた。言葉を選ぼうとしてはいるが、つまりは外面が良いと言いたいのだろう事は良く分かった。
「ええと、そちらの方々は?」
 軽い遣り取りを済ませた後、経営者がふと疑問を口にした。意図的か、はたまた伝達に漏れがあったのか、此方の事は伝わっていなかったらしい。
「わたくしの部下ですわ。所用を頼む際にはどうぞ何なりと申し付けてやって下さいまし」
 穏やかに言いながら、ちらりと視線を寄越してくる。睨む様な、ぎらりと鋭い眼差し。それは明らかな、威嚇だ。さしずめ余計な事はするな、必要な時以外は大人しくしていろ、といった所か。
「そうでございましたか……これは、とんだ失礼を」
「いえ、話が漏れた様で申し訳ありません。ところで、黄 ( フォン ) 社長はお目見えに?」
「所用で遅れるとの報告を頂いております。先に始めていて欲しいとの事でした」
「そうですか。では早速ですが、ご案内頂けます?」
「承知致しました。どうぞ、此方へ」
 経営者はゆったりとした足取りで門へと誘った。ヤンリンと彼女の護衛がそれに続いたのを確認して、メイは気持ちを切り替える様に景気よく声を上げる。
「さ、お仕事お仕事! 頑張らないとね!!」
 そうして勢いよくばんばんと、リェンの背を叩いた。
「ホント、頑張ってよね。一目置かれちゃうくらいに、さ」
 突然の事にリェンは一瞬戸惑ったが、彼女なりの鼓舞なのだろうと解釈して頷いてみせる。
「……努力はしてみるよ」
 無駄な努力に終わらせたくはないが。リェンは、苦笑を滲ませながらそれだけを呟いた。


 客の居ない娯楽施設というのは不思議なもので、ただ其処に居るだけで裏側を覗いている様な気分になる。普段見ている物が、全くの別物に見えてしまう様な錯覚を起こさせるのだ。通常は賑やかな声が飛び交う大通りも静寂に包まれ、遊具を始めとした建物達も今は何処か物寂しく佇んでいる。周囲のそんな風景が、違和感となって押し寄せていた。
「…………つまんない」
 ぽつりと呟いたのは、メイだった。近辺警護を担当する三人はヤンリンを含む集団からは一定の距離を保ちつつ、その動向を見ている状態だ。
「遊具は動いてないし、こんなの寂しいだけよ。折角来てるのに遊べないだなんて!」
 その辺りの感性はまだまだ年相応の子供なのだろう。一応仕事として割り切ってはいる様だが、それでも切り捨てられない感情という物も存在する。まだ十代前半の年頃ならば、尚更だ。
「遊べる機会はこれから幾らでもあるわよ。今度、連れて来てあげるわ」
 宥める様に、シャンが言う。まるで母親の様だ、などと言ったら彼女に怒られるだろうか。
「約束ね。絶対よ?」
「ええ、もちろん。だから今は、お仕事優先。ね?」
「分かった。頑張る」
 念押しに肯定が返って来た事で、漸くメイは完全に割り切れたらしかった。
 しかし置かれている状況には変わりが無い。特に何をするでもなく、ただ一行の後ろを付いて回っているだけだ。護衛として来ている以上、気を抜く事は出来ない。だが何も無さ過ぎるのも退屈だ、などと言うのは不謹慎だろうか。
 そもそも、娯楽施設を見て回るだけの仕事に特別執行課の人間を必要とする理由はあるのだろうか。事件を彷彿とさせる予告めいた物が届いているのならばまだ分かるが、どうにもそういった話は無い様子だ。副社長の護衛達だけで充分に足る仕事とも言える。
「どうして、今回僕達に仕事が与えられたんでしょうか」
「どうして、とは?」
 ぽつりと呟いた言葉に、シャンが首を傾げた。彼女にとっては、それほど疑問では無いらしい。
「特別執行課総動員で護衛に回る程、危険な仕事の様な気がしないものですから」
「言われてみれば、そうね。でも、副社長の案件は大抵こんな感じなのよね」
「そうそう。どうせこっちの粗探しとかが目的に決まってるわよ」
 シャンとメイが、口々に言う。彼女達からしてみれば、いつもの事という認識なのだろう。
「特に危ないから呼ぶとか、そういう事じゃないのよ。ま、何事も無いのが一番だし、それで終わればこっちとしても楽っちゃ楽なんだけど」
「ちなみに、今まで何か起きた事は?」
「残念ながら、一度も」
「……そう、なんだ」
 有り難い事にと言うべきか、残念ながらと言うべきか。メイの言った通り何事も無いまま視察も終盤に差し掛かり、一行は最終地点へと向かおうとしていた。
「此処が無事に終われば問題無しよ。任務完了、後は帰るだけ」
「……了解」
 もう頭の中は帰宅する事に擦り替わっているのだろうか。彼女の口振りに何気なくそう思ったが、言葉には出さないでおいた。
 仕事としては気楽だが、警護対象であるヤンリンやその護衛官達と特別執行課の間には張り詰めた様な鋭い空気が漂っているのが現状だ。正直、此処までの居心地は最悪だった。それを思えば、メイの言葉にも自ずと同意出来てしまう。しかしその感情は胸の内に押し込めて、リェンは無心を装う事にした。それが最善の策だ。
 最後の建物まであと僅か。
 ――――その時、何処か遠くで銃声が響いた。


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