第9話 奇襲


 破裂にも似た鋭い音が、微かに耳に届いた。煉瓦を模したお洒落な歩道が僅かに削られた異変はあまりにも小さすぎて、他の誰にも気付かれていない。
「……中へ!」
 反射的に叫んで、リェンはメイの頭を庇う様に抱き寄せた。辺りを注意深く見渡しながら、状況の読めていない様子の経営者達に向けて再度警告をする。
「建物に避難を! 早く!!」
 荒事にも慣れている筈のヤンリンの護衛官でさえ状況が分からぬ顔をしていたが、緊迫した声にただならぬ物を察したのだろう。護るべき主を鋼の肉体で庇うと、盾となって近場の建物へと迅速に誘導した。それを追う様にして、複数の銃弾が彼らの足元を掠めていく。そうして漸く、その場に居た全員が事態を把握した。
「どうして――――」
 悲鳴にも似たシャンの声は、混乱を極めた騒ぎの中に掻き消された。
 経営者一行が建物に身を隠した所で、追撃がぴたりと止む。これ以上、彼ら追うつもりは無いらしい。但し代わりに矛先が此方に向いた事を、リェンは肌で感じ取っていた。
「リェン、離して。あたしは」
 抱き寄せたままの腕の中で、メイがもがいた。しかしリェンは離さない。辺りに意識を配ったまま、抱き締める腕に力を籠める。流石に苦しかったのか、メイが顔を僅かに歪めた。
 辺りに自分達以外の気配は無い。銃弾の撃ち込まれた方向や角度から推測する限りでも、狙撃手はある程度離れた箇所に身を潜めている事は間違いないだろう。
 瞬間、生じた鋭い気配に身体が動いた。手にしていたスーツケースをメイの頭を庇う位置まで持ち上げた直後、その表面に小さな擦過痕が残される。それは、ほんの一瞬の出来事。時間にして、僅か数秒程度の攻防。僅かでも反応が遅れていたら、メイの生死に関わる事態になっていたかも知れない。それに気付いたメイが、戸惑いの滲む声で呟いた。
「あ、ありがと……」
 嘘の様に消えた殺気を認めたリェンは、そこで漸くスーツケースを下ろす。
「怪我は無い?」
「うん、平気。リェンが……助けてくれた、から……ね」
 どうにも歯切れが悪いのは、身の危険を感じたから故なのだろうか。特別執行課の仕事は荒事も多いという印象があった為、勝手にこういった事には慣れていると思っていた。しかし身の危険を感じる様な環境は、やはりまだ幼い少女にとっては平静でいる事など不可能な状況なのかも知れない――――本来そんなもの、慣れる必要が無いのだが。
「そう。良かった。今の所、もう狙うつもりは無いみたいだから大丈夫かな。殺気が綺麗に消えた」
 綺麗に消えすぎて逆に違和感が残る、とは言わなかった。この場では不要な一言だろう。
「ねえ、リェン」
「今回は忠告の意味合いが強そうだけど、流石に最後のは危なかったね。あと少し遅れていたら」
「……リェン!!」
 遮る様に、メイが名を叫んだ。追究を恐れるあまりに饒舌になりすぎただろうか。その声には、何処か責める様な響きさえ孕んでいた様に聴こえた。
「説明が欲しいと思うのは、間違ってる?」
「――――いや。当然の権利だよ」
 真っ直ぐに見つめて来る視線から目を逸らして、リェンは答える。まともに目を合わせる事が、出来なかった。彼女に対して何かやましい所がある訳では無い。しかし自身の暗部に触れるという事実が、リェンに後ろめたさを感じさせるのだ。それが罪に対する罰である様に。
「なら教えて。帰ってからでも構わないから、絶対に」
「……分かった。代わりに、此方からも質問があるんだけど」
「良いわ。お互い抱えてるモヤモヤはぶつけてスッキリさせましょう」
 静かに答えたメイの姿は、その実年齢よりも遥かに大人びて映った。何処か違和感にも似た感情を抑えつつ、リェンは冷静を装って問い掛ける。
「遠方に回っているふたりとは連絡が取れる?」
「やってみる。何事も無ければ良いんだけど……」
 思い出した様に呟いて、メイは腰に下げていた小さなポーチから小型の通信機を取り出した。慣れた手付きでボタンを押して、呼び掛ける。
「こちらメイ。リュウ、レイミン、聞こえる?」
 小さな機械は、僅かな音も拾わない。ただひたすらに沈黙を届けるばかりだ。
「リュウ、レイミン、返事して。あたしの声、聞こえてる? リュウ! レイミン!!」
 繰り返し、メイはふたりの名を呼ぶ。だが、結果は同じ。何の応答も無いままだ。
「……おかしい」
 メイがぽつりと漏らした。瞬間的に生まれた疑惑と不安は、その場に居た誰もが等しく抱いた物だろう。戸惑いにも似た三人の視線が、ぶつかる。
「ふたりは何処に?」
「……今は、あそこだと思う」
 短い返答と共に、メイは彼方を指差した。現在地から数十メートル離れた所にある、建物だ。施設の空気感を損なう事の無い様に、周辺から隠す様にして建てられている事務所らしい。
「とにかく、行ってみるしか無さそうね」
 シャンが言う。自ら先陣を切って突き進んでいきかねない響きに、リェンは口を挟む。ふたりの安否は心配だが、経営者一行を置いたまま全員が此処から姿を消す訳にはいかない。誰かが残って、状況説明や対応をしなくてはならないだろう。そしてこの場合、最も適任なのはシャンだ。
「シャンさん、あの……」
「大丈夫よ、分かってる。此方のフォローは私が何とかしておくわ。何かあったら、連絡を頂戴」
「ありがとうございます」
 何も言わず此方の意図を汲んでくれた彼女に、頭を下げる。シャンはただ穏やかに微笑んで、ふたりを送り出してくれた。


 事務所には、人の影ひとつ見当たらなかった。休園日なのだから、当然ではあるが。
 メイの話によれば、ふたりは屋上から様子を見る手筈になっていたらしい。室内に誰の姿も無い事を確認して、リェンは屋上へ繋がる階段に足を掛けた。瞬間、背後から呼び止められる。
「リェン、待って」
 メイは腰のポーチから、今度は小さな拳銃を取り出した。それはまだ幼さの残る少女が手にするには、あまりにも物騒な代物だ。だが彼女が生きるこの世界に於いては、さして珍しくも無い。赤子さえ武器を手にする様な区域が存在する事を、リェンは知っていた。それに比べれば、護身用という意味合いを考えてもまだ可愛い物だろう。
「もしかしたら、さっき狙ってきた奴がまだ居るかも知れない。だから、念の為の武装は必要でしょ」
 言って、銃を握る手を差し出す。リェンは迷わず受け取った。メイに使わせる様な事になるくらいなら、自分が使うべきだ。その意志の下に。
「使い方、分かるよね」
 短く、メイが告げる。質問というより断定の響きを持っていた事は気になったが、今はそんな事に気を割いている場合では無い。素直に頷いて受け取った。全てはこの後に明らかになるのだ、問いはその時口にすれば良いだろう。
「気を付けて」
 メイの一言に背を押され、リェンは階段を昇った。息を殺して屋上へ続く扉に近付くと、ゆっくりとノブを回す。錆び付いた見た目に反して、扉は静かに開いた。銃を握る手に僅かな力を込めて、細い隙間から様子を窺う。
 其処は、想像よりも広く感じる空間だった。人の気配は、無い。先刻の狙撃手は既に、此処から立ち去った可能性が高い様だ。そう結論付けて、リェンは扉を大きく開け放つ。
 一見しただけでは、誰の姿も見えなかった。リェンはそのまま踏み込むと、奥まった箇所へと足を進める。メイが後に続き、そうして視界に入った光景に悲鳴にも似た声を上げた。
「……リュウ! レイミン!!」
 リェンの横を擦り抜けたメイが、倒れたふたりに駆け寄る。リェンは、真っ青な顔をして身体を揺さぶるメイを引き剥がした。息はある。見た所外傷は無い様だが、状況が正確に分からない状態では下手に動かす事は得策では無いだろう。
  ちらりと様子を窺うと、メイは呆然と立ち尽くしていた。取り乱しこそしていないものの、青褪めた顔には動揺の色が浮かんでいる。当然、だろう。
「……ぅ」
 不意に、小さな呻きが漏れた。視線を戻すと、レイミンが身動ぎする。メイが慌てて駆け寄った。
「レイミン! 大丈夫? 何があったの!?」
 メイの問いに、目を開けたレイミンはただ小さく首を振る。分からない、という事なのだろう。そっか、と呟いて、メイは身を起こした彼女に抱き付いた。
「無事で、良かった……」
 安堵の声を漏らすメイを優しく見守りながらも、リェンは未だ意識の戻らないリュウの身体を抱え上げた。レイミンの様子を見る限りでは、彼もじきに目が覚めるだろう。
「取り敢えず、シャンさん達の所に戻ろう。もうじき副社長も戻らなきゃならない時刻だろうし」
「……そうね」
 レイミンから離れたメイが、静かに答えた。


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