第2話 魔法のケーキ


 テーブルの上に置かれたケーキを前に、千歳はごくりと唾を飲み込んだ。
 チェリー・ブラッサムへの寄り道から帰宅してすぐ、貰った箱の中身を取り出して数分。睨めっこでもするかの様にまじまじとケーキに見入るその姿は、慶玖曰く「『待て』状態の犬みたい」だそうだが、そんな揶揄に反論している余裕など、今の千歳には無かった。完成されたケーキを目の前にして、無駄な遣り取りなどしている場合では無い。
 それは、ホールから切り分けられたショートケーキ。大きさから推測するに、八等分された物だろうか。それが、千歳と慶玖のふたり分を考慮してだろう、二切れ存在している。しかし特筆すべきは、その色だ。
 そのケーキは、淡い桃色に彩られていた。店の纏う色を受け継いだそれは、見るからに看板メニューなのだと推測出来る。言い換えれば、あの店が誇る一番の自信作であるということ。それを、千歳は様々な角度から観察していた。
 チョコレートのスポンジの上に桃色のクリームが鎮座し、ケーキの上には同じクリームで花弁を模したデコレーションが成され、シロップ漬けにされた桃と小振りの苺が二個乗っている。そして断層を良く見れば、僅かに色彩の違う桃色が重ねられており、二種類のクリームを使用してある事が分かった。
「……いつまで眺めてるつもり? 凄く綺麗に出来てはいるけど、飾っておくとか言わないよね?」
「そんな事する訳ないでしょ! ちゃんと食べるわよ!!」
 溜息混じりに呟かれた声に、千歳は今度こそ反論した。確かに見た目も素晴らしいし、オブジェとして飾っても良いくらいの出来栄えだ。しかしあくまでもケーキ、見た目だけでは意味が無い。味が美味しくてこそ、意味があるのだから。――――しかし、食べてしまうのが勿体無い。それは心からそう思ってしまう様な、完成された構成だった。
「それじゃあ、僕の分だけでもくれない? 観察するのは自由だけど、片方あれば十分でしょ」
「…………あ」
 言われて、気付いた。自分が、共に占領して眺めていた事に。
 慌てて片方を向かいに座る慶玖の方へと押しやる。漸く手元にやって来たケーキを前にした慶玖は、律儀に両手を合わせて「いただきます」の挨拶をしてから黙々と食べ始めた。ぱくぱくと絶えず何度も口に運ぶも、一向に出て来る気配の無い感想に、千歳は眉根を寄せる。見た目の完成度とは裏腹に、平凡な味なのだろうか。しかしすぐにフォークを置くでも無く食べ続けている辺り、少なくとも不味いという訳では無さそうだ。
 無言で全てを平らげた慶玖が、フォークを置いた。そうして冷め始めた紅茶に口を付けると、呆れた様に言う。
「で、人が食べてるのをずっと眺めてて、今度は何がしたいの? 千歳ちゃんは」
 急に話題を振られて、千歳は動揺した。あまり悟られたく無くて、慌てて言葉を発する。
「た、ただ、黙って食べてるから美味しくないのかなぁと思って。ねえ、味、どうなの?」
「さぁ、それはどうかなぁ」
 茶化す様な、曖昧な返事。思わずむっとした千歳を見透かした様に、慶玖は言う。
「百聞は一見に如かず、だよ。人の意見よりも、自分の感想が一番。まずは自分で食べてみること」
 悔しいが正論だ。味の感想なんて千差万別。人が不味い物も、自分が美味しいと感じる事だってある。逆もまた然り。結局は、自分の好き嫌いの感情に代えられる物など無いという事だ。
 千歳はフォークを片手に、手元のケーキを見下ろした。ひとつの芸術品と化したそれを崩してしまうのは惜しい気もしたが、作り手の思いを鑑みれば食べる事こそが正しい。意を決して、桃色の断層クリームを掬い取った。泡にも似た感触の柔らかさでフォークの上に切り取られた桃色を、口へと放り込む。
 口の中に広がったのは、絶妙な加減で混ざり合う、とろける様な甘さとアクセントのある甘酸っぱさ。ふわりと漂った香りには心が躍り、自然と顔が綻ぶのが分かった。桃色の断層の正体は苺と、恐らくは桜。千歳はそう判断した。
 その感想は、一口には言い表せない。クリームを僅かに口にしただけで、溢れる様な幸福感を味わったのは初めての事だった。慶玖が抱いた感想が千歳と同じであるならば、無言で食べ続けていたのも納得がいく。気付けば、次から次へとケーキの欠片を掬い取っていた。
「で、自分で食べて見た感想は?」
 してやったり、といった風の慶玖の発言にも、いつもの様な苛立ちは生まれなかった。
 柔らかな幸福感に満ちた余韻に浸りながら、ただぽつりと思いを漏らす。
「……美味しかった。ううん、美味しいなんて言葉、たぶん的確じゃ無い。こんなケーキ、初めて食べた」
 それが、桃色のケーキに対して千歳が純粋に抱いた感想だった。
「ケーキにうるさい千歳ちゃんがそこまで言うんだから、これは本物だね。これを作った職人は、かなりの腕前だと思うよ。正直な話、僕も今まで食べたケーキ類の中でも群を抜いて美味しかったのを認めるし」
 応じる様に呟いた慶玖の言葉に、千歳は耳を疑った。何事に対しても厳しい評価を下す傾向にある慶玖が、素直に褒める事は珍しい。つまりは、それだけこのケーキの完成度が高かったという事だろう。
 食べるだけで人を幸せにするという、そんな夢物語の様な事を現実にしてしまう菓子が、この世に存在している。それは、千歳に衝撃を与えた。いち消費者としてもそう感じるのだから、菓子職人を目指しているのなら、尚更だ。
 そうなると気になるのが、このケーキの作者だ。
「これ、誰が作ったのかな。あの女の人?」
「僕に訊かれても、返答しようが無いでしょう」
 さらりと返された言葉に、千歳は唸る。別に、肯定が欲しい訳では無い。ただ、推測に付き合って欲しいだけなのだから。それを見抜いたのか、慶玖は食器を纏めながら、仕方無いといった様子で声を返す。
「でも、その可能性はあるかな。僕達への対応を見るに、彼女が店主だと考えるのが無難だと思うし。まぁ職人を雇って店主が販売に専念する、って可能性もゼロじゃないから言い切れないけどさ」
「だよね。じゃ、明日またお店行ってみる」
 意を決して言い切った言葉に、慶玖が驚いた様子で動きを止めた。
「ちょ、千歳ちゃん? 何言ってんの」
「何って、言った通りだよ。明日の帰り、また行くの。オープンは明日だもん、問題無いでしょ」
「いや、そういう事じゃ無くて。行ってどうするのかって事だよ」
「内装気になるし、他のケーキも食べたいし、今日のお礼言いたいし、誰が作ったのかも知りたいし」
 言い出せばキリが無い。立て続けに飛び出す願望に、慶玖は深く息を吐いた。
「分かった。じゃあ僕も行くから。今の千歳ちゃん放っておいたら、何やらかすか不安だし」
「何よ、そんな言い方しなくても! 別に変な事しないもん!!」
「とにかく、千歳ちゃんの邪魔になる事はしないから安心して。僕も気になる事があるだけだから」
「……気になる事? 何それ」
「さぁね。どうしてあんなに美味しかったのか、とかかな」
 問い掛けた疑問は、さらりと躱された。秘密主義なのはいつもの事だが、毎度の事ながら腑に落ちない。此方の事は根掘り葉掘り問い詰めて来る癖に、自分の事は曖昧にぼかして逃げる。それが慶玖という人間だ。
(我が兄ながら、いまいち掴めないんだよね……)
 内心でぼやいて、千歳は考える事を放棄した。今重要なのは、慶玖の性格では無い。今は既に形を失った、魔法の様なケーキの実態なのだから。
 もし、同じ様な物が自分にも作れたら――――そう思わずにはいられない。
(そうすれば、悩む必要なんて無いのに)
 浮かび掛けたマイナスな思考を、千歳は慌てて振り切った。
 そうして明日の訪問で何か有意義な情報が得られる事を願いながら、千歳は拳を握るのだった。


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