第4話 もうひとりの店員


 ひとつめのケーキは、ショーケースを覗いた時に一番最初に目に入った品だった。チョコレートのスポンジ。桃色のクリーム。宝石の様に輝いたフルーツ。それは、昨日貰ったケーキと同じと言って差し支え無いだろう。
 千歳自身、どうせ頼むのならば別の種類をと思って物色した。した、つもりだった。
 しかしそれが真っ先に視界に飛び込んで来ると、何だか頼まなくてはいけない様な気になってしまって、気付けばそのまま注文してしまったのだ。一口含めば、昨日と同様に幸せな気持ちにふわりと包まれる。その心地良い幸福感を得られるだけで、もう細かい事など気にならなくなっていた。美味しいケーキが食べられるだけで、有り難いのだから。
「んー、しあわせー」
 美味しさに、顔が不思議と緩んでしまう。対面に座る慶玖が、呆れる様な顔をして溜息を吐いた。
「ホント幸せな性格だよね、千歳ちゃんは」
「何よ、美味しい物食べて笑顔になるのの何処が悪いのよ」
 そう反論して、千歳は頬を膨らませる。こんな幸せな時間を、台無しにしないで欲しい。
 慶玖は背後を小さく指で示して、ぽつりと零す。
「こんな状況で、まったり出来る神経が素晴らしいって言ってるの」
「え? …………う」
 反射的に示された方向に視線を向けて、千歳は固まった。
 店の隅に置かれたテーブルに、ふたりは向かい合わせの形で座っている。未だに列の続く光景を背にした慶玖と、それが視線の先に存在する千歳。そして列を組んだ人々は、様々な感情を持ってふたりを見ている。或る人は羨ましげに、或る人は妬ましげに、或る人は悔しげに。その心は、人様々だ。その人々の思いに共通するのは、ひとつの疑問、だろう。つまり、何故ふたりが此処でこうしてケーキを食べているのか、だ。
 何も知らない人から見れば、確かに不可思議な光景なのだろう。いや、実際のところ千歳にとっても、彼女が何故ここまでしてくれるのかは分からない。オープン前の昨日のうちに押し掛けた上、ケーキをご馳走になっただけの間柄だ。それだって、彼女の方からコンタクトがあっての事である。考え始めると謎ばかりだ。
 ふと手元に視線を落とすと、彼の頼んだケーキは半分程に減っていた。
「そういう慶玖だって、しっかり食べてるじゃない」
「千歳ちゃんと違って、僕は背中向けてるから。窓からは多少見えるけど」
「……そういうモンなの? 大して変わらないと思うけど」
 素晴らしい神経の持ち主は、寧ろ兄の方では無いのだろうか。思ったが、声には出さずにおいた。
 と、其処へ、静かに割って入る声があった。
「紅茶をお持ち致しました」
 ふと視線を上げれば、其処には背の高い青年の姿があった。肩口まで伸ばした髪は透き通る様なブルーで、桃色の髪の女性と並べば華やかな事この上ないだろう。ウェイターを思わせる様な服装は彼女の物と何処か似通っていて、此処の店員だろうと推察出来た。思えば、先刻彼女は「飲み物を用意させる」と言っていた気がする。状況に驚いていて気にも留めていなかったが、あれは確かに第三者の存在を表していた言葉だ。
 しかし彼女の存在だけでも驚きだというのに、それに似た人物がもうひとり現れようとは。流石の慶玖もこれには驚いた様で、言葉も無く彼の動作を眺めている。ふたりが呆気に取られているうちに、彼は紅茶を置いて去っていった。
「他にも店員さん、居たんだ」
 その後ろ姿を眺めながら、千歳は感想を吐き出す。返る言葉は無い。
「あの人と何か雰囲気似てたね。ううん、似てた訳じゃないんだけど……ってちょっと、慶玖。聞いてる?」
「あ、うん、聞いてる聞いてる」
 返す慶玖の声は、心此処にあらずといった風に聞こえた。そんなに、驚いたのだろうか。
 疑問に思っていると、不意に慶玖が口を開いた。
「千歳ちゃん。僕、ちょっと一旦家に帰るね」
「え? ちょっと、何よソレ?」
「用事思い出したから。終わったらまた来るからさ。それに、母さんにも言っておいた方がいいでしょ?」
「それは、まぁ、そうだけど」
「じゃ、そういう事で。それ、食べかけで良いなら千歳ちゃんにあげるよ」
 それだけ言い残し、慶玖は店を出ていった。唐突な展開に千歳は困惑したが、考えた所で仕方が無い。
 此処に来る事を、親に伝えていないのは事実だ。良く良く考えれば夕飯の事もあるし、確かに慶玖の言う事にも一理ある。伝言役を自ら進んで申し出てくれたのだから、そこは有り難く頼んでしまうのが得策だろう。彼が唐突に思い出したという「用事」については、疑問しか残らないのだが。
 テーブルの上に残されたケーキを前に千歳は考える事を放棄して、半分残ったケーキの皿を引き寄せた。
(これだけ食べたら、夕飯食べられない気もするんだけどな……)
 そんな不安も意識の片隅にあったが、そんな考えはいざ目の前にしてみれば数秒と持たなかった。
 最早周囲の目など気にもせず、千歳はケーキを食べる事に集中し始めたのだった。


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