第5話 さくら色の乙女


 多忙を極める洋菓子店の片隅に、ひとり取り残されて数十分。千歳の目の前にあった複数のケーキもすっかり姿を消した頃、一時帰宅していた慶玖がひょっこりと戻って来た。余計な一言と共に。
「うわ、ホントに全部食べちゃったんだ。千歳ちゃん……太るよ?」
「いーの! 今日は、今日だけは特別なのっ!!」
 今日だけは、と訂正した上で強調してみたものの、昨日もしっかりケーキを食べている辺り、説得力は皆無だった。しかし、兄の言い分を素直に受け止める気にはなれなかった。それが、例え事実だったとしても。
 千歳は間髪入れず次の言葉を繰り出した。下手に間を与えては、一体何を言われるか。折角至福の時間を味わっていたというのに、無駄な揶揄に苛立ちたくなど無い。
「それで、お母さん何か言ってた?」
「ん? あー、うん、店の人に迷惑だけは掛けない様に、って」
 答えて慶玖は椅子に座ると、自宅との往復で流石に疲れたのか、すっかり冷えた紅茶に口を付けた。
「お客さん、大分減ったね」
「うん。もう残り一時間くらいだし、これ以降に並ぶ人はまた明日以降に、って説明してたみたい」
「ふぅん。じゃあ今並んでる人達が終われば営業終了、って訳か。あと少しだね」
「……うん」
 漸く、念願の時間が訪れる。そう考えると、嫌が応にも緊張してしまう。意識せずとも湧き上がって来るその心を解そうと、 千歳は軽く握った拳にぎゅっと力を込めた。


 そうして待つ事約一時間。兄妹で他愛ない雑談を交わしているうちに、その時はやって来た。
 すっかり客の居なくなった、静かな空間。その場に居るのは、千歳達ふたりと、先刻仕事を終えたばかりの女性だけ。彼女は急ぎ早に店の奥へと姿を消すと、お茶の用意を持って戻って来た。ふたりの目の前にあったカップを温かな紅茶が入った物と取り換えると、彼女はふわりと微笑む。
「良かったら、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
 クッキーやフィナンシェなどが盛られた籠をテーブルの中央に置き、彼女は紅茶と共に勧めた。ふたりは有り難く紅茶に口を付け、お茶菓子に手を伸ばす。こうして、不思議な空気の流れる小さなお茶会は始まった。
「自己紹介、まだだったわね。私は大木さくら。そうね、この店の店長……って事で良いのかしら」
 何処か曖昧な表現ではあったが、彼女が店主だと言う推測に間違いは無かった様だ。
「あ、あの、えと、わ、わたしは成瀬千歳って、い、いいます! あの、で、ええと、こっちが」
「…………千歳ちゃん、動揺し過ぎだから。あ、僕は成瀬慶玖です。一応、千歳ちゃんの双子の兄やってます」
 倣う様にして名乗ったふたりに、さくらは笑みを零す。
「ふふ。面白いのね、貴方達」
 緊張のあまりしどろもどろな自己紹介になってしまった事を後悔する千歳だったが、一切の邪気も無くそう言われてしまっては、もう笑うしか無い。千歳の苦笑にも似た笑顔に更なる笑みを返して、さくらは問い掛けた。
「それで、今日はどんな用なのかしら?」
 千歳はちらりと兄の様子を窺い見た。しかし彼は、口を開く様子は無い。此処へ来る事を決めたのは、千歳自身。ならば、自分自身の言葉で伝えるべきだというのだろう。そう、瞬時に理解した。
「あのっ! ……あの、き、昨日はケーキ、あ、ありがとうございました。とっても、とーっても美味しかったです!」
「ありがとう。気に入って貰えたのなら、私も嬉しいわ」
「さっき貰ったケーキも、どれも絶品で忘れられないんです。食べると、魔法が掛けられたみたいに幸せな気持ちになって。いつまでもこんな気持ちで居たいって思えるくらいで。毎日だって食べたいくらい、あたし、此処のケーキ大好きです! こんな素敵なケーキを食べる事が出来た事、本当に感謝してます!! それを、伝えたくて」
 あの感動を伝えようと声に表してゆくと、不思議とすらすら言葉が出て来た。留まる事を知らず、次から次から溢れ出て来る。捲し立てる様に思いの丈を一気に吐き出すと、圧倒された様にさくらが目を瞬かせた。
 暫しの無言。その静寂が、先刻の振る舞いを千歳に実感させていく。勢い余って、力説し過ぎたのかも知れない。落ち着いて思い返してみれば、妙な恥ずかしさだけが生まれて来る。かといって沈黙を自ら破る事など出来ず、千歳は動揺の隠せない視線をふらふらと彷徨わせていた。
 沈黙を破ったのは、さくらが小さく吐き出した息だった。
「急に黙ったりしてごめんなさい。ちょっと、ビックリしちゃって。そんな風に言われるなんて、思って無かったから。でも、本当に嬉しいわ。私の作ったケーキ達を、こうして喜んでくれる人が居るのがちゃんと分かったもの。私、此処に来て本当に良かったわ。だって、千歳ちゃん達みたいな人達とこうして出会えたんですもの」
 そう言うさくらの目には、うっすらと涙さえ滲んでいる様に見えた。
「あの、ひとつ良いですか?」
 不意に、今まで黙っていた慶玖が口を開いた。さくらは指先で目元の雫を拭い、頷く事で先を促す。
「僕の見立てだと、暫くはこのまま行列が続くんじゃないかって思うんです。そこで質問なんですが、人数足りなかったりしませんか? ずっと見てましたが、お客の対応は全てさくらさんがひとりで行ってましたよね」
「ええ、そうね。正直な事を言えば、確かに人数は少ないわね。わたしともうひとり……夕方、紅茶を運んで来た彼ね。スィリーンって言うのだけれど……その彼と、ふたりだけだもの」
「ふ、ふたりですか!?」
 千歳は思わず叫んでいた。先刻の話に寄れば、ケーキを作っているのも彼女で間違いないだろう。しかしさくらはレジに掛かりきりだった。追加で作る事は不可能だったと言える。あれだけの行列に対応し得るだけの在庫を用意していたというのなら、一体どれだけの準備が必要なのだろう。
 そしてそれを、行列が落ち着くまでの当分の間遣り繰りしなければならない。考えただけで気が遠くなる。
「それでですね、不躾なのを承知で言わせて貰いますが。良かったら、僕達を此処で働かせて貰えませんか?」
「…………はぃ?」
 慶玖が突如として発した言葉に、千歳はただ呆然とするのだった。


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