第6話 それは奇跡か偶然か


「ちょ……何言ってるのぉお!?」
 思わず立ち上がって、千歳は叫んでいた。とんでもない事を言ってのけた当人は、此方の動揺など欠片も気にしていないという風情で涼しい顔をしている。一体何を考えてそんな無謀な問いを投げ掛けたのか、千歳には兄の意図が全く分からなかった。見下ろす形になった慶玖の姿を、困惑するままに見る事しか出来ない。
「取り敢えず落ち着きなよ、千歳ちゃん。ほら、座って」
 そう促されて、千歳は漸く腰を下ろした。
 ちらりとさくらを盗み見れば、彼女もその発言には流石に驚いた様で、目を瞬かせている。無理も無い。こんな風に席を設けて貰ったものの、彼女にとって此方はつい昨日会ったばかりの相手だ。幾ら人手が足りない状況であるとは言え、そんな相手に募集もしていない状況でそんな申し出をされるとは考えてもいなかっただろう。
「ちょっと唐突過ぎましたね。すみません」
 苦笑混じりに慶玖が言うと、さくらは小さく首を振った。
「そんな事無いわ。確かに、ちょっとビックリする申し出だったけれど。でも、そうね……此処は思い切って、お願いしちゃおうかしら。勿論、手伝って貰うからにはちゃんとバイト代はお支払いするわ」
「え!? そんな簡単に頷いちゃって良いんですか!?」
 思わず、千歳は身を乗り出して叫んでいた。唐突な申し出をした慶玖も慶玖だが、大して迷う素振りも無く許諾したさくらもさくらである。その気楽とさえ取れる素早い判断は、千歳には到底真似出来ない芸当だ。
「貴方達だったら、安心して任せられる様な気がするの。そんな理由じゃ駄目かしら?」
「いや、駄目って事は無いんですけど……」
 困った様に言われてしまっては、これ以上何も言えない。しかし、この展開は決して悪い物では無かった。
 菓子職人――――所謂パティシエールに憧れを抱いている身としては、あの魔法の様なケーキを生み出した人物の下で働けるというのは夢の様だ。状況が許せば、作り手として有意義な話を聴く事が出来るかも知れない。そう考えただけで、千歳は頬が緩みそうになる。そのきっかけを作った張本人が兄である事など、最早頭には無かった。
「じゃあ改めて私からお願いするわ。千歳ちゃん、慶玖くん、明日からお手伝いして貰えるかしら?」
「は、はいっ!」
「勿論、僕も喜んで」
 次々に肯定の声が上がると、さくらが嬉しそうに微笑んだ。
「有り難う。ふたりと出会えたのは、幸運だったのかも知れないわね。何だか、運命みたいな物を感じるの」
「運命、ですか?」
 千歳は目をぱちりとさせた。彼女がそんな事を言い出すなど、思わなかったのだ。
「ええ。何となく、ふとそう思っただけ。深い意味は無いから、気にしないで?」
 苦笑にも似た顔でそう言うと、さくらは何かを思い付いた様に表情を変えた。声の音量を落とし、まるで秘密の話を打ち明けるかの様な無邪気さで口を開く。その動作に、ふたりも反射的に彼女に顔を近付けた。
「折角だから、此処だけの話、教えてあげる。昨日ふたりにプレゼントしたあのケーキの秘密」
「あの、ピンク色のクリームのヤツ……ですか?」
「そう。あれは、特別なの。食べた人の願いが叶う様に力を貸してくれる、魔法のケーキなのよ」
 さらりと言われた言葉は突拍子も無さ過ぎて、常人なら笑い飛ばしてしまうのかも知れない。けれど、千歳にはそれが嘘だとは思えなかった。いや、思いたく無かった。さくらが冗談を言っている様に見えなかった事もあるが、何よりも、このケーキを食べて以降、この店に深く関わる流れになったという事の方が大きい。
 この奇跡的な展開は彼女の言う通り、ケーキの魔法が千歳の背を押してくれた結果だったとしたら。
 それが真実であるかなど、千歳にとっては些細な事だ。例えこれが偶然が上手く重なった結果だったとしても、そう思えるだけで幸せだったから。理由は今、重要では無い。今の千歳には、結果が全て。憧れ続けて来た夢への、第一歩。それを今、手にしただ事実だけで充分だった。
「信じるかどうかは任せるわ。冗談みたいな話だものね」
 そう補足的に締めて、さくらは話を切り替える。
「ふたりとも、紅茶のお代わりはいかが?」
「……いえ、大丈夫です。もう時間が時間ですし、そろそろお暇しようかと」
「そう? でも言われてみれば確かに、もう外も暗くなっちゃったわね」
 窓の外に視線を遣ったさくらが言う。それを合図にした様に、慶玖が立ち上がった。千歳も慌てて、それに倣う。
「ふたりとも、今日は有り難う。明日から、宜しくね」
「こちらこそ、宜しくお願いします! 学校終わったら、すぐ来ます!!」
「有り難う。楽しみにしてるわ」
 目を輝かせる千歳に、さくらは優しく微笑み掛ける。
 と、不意に慶玖が口を開いた。
「そうだ、最後にひとつだけ訊きたい事があるんですけど……良いですか?」
「ええ。何かしら?」
「この店があるこの場所、確か桜の木が植えられてた気がするんですけど」
 慶玖の発言に、さくらが困った様に眉根を寄せた。
「私は直接見た訳じゃないから良く分からないんだけど、それなら悪い事をしてしまったわね。伐採されたのではなくて、何処か別の場所に植え替えられている事を願いたいのだけど」
「……そうですか。変な事聞いて、すみませんでした。それじゃ、僕達はこれで」
「ええ、また明日ね」
 さくらが、微笑みながら手を振る。千歳はぺこりとお辞儀ひとつ残して、店を後にした。


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