第7話 慶玖の疑問


 チェリー・ブラッサムからの帰り道。考え込んだ様子で足早に帰路を辿る慶玖を追いながら、千歳は先刻彼が口にした問いを思い出していた。あの店がある場所には、桜の木が植えてあった筈だ――――そう確信を持って発言したであろう慶玖と違い、千歳の記憶は朧のよう。兄の言葉を聞いても、全く思い出せないのが現状だ。
 あの場所はあまり立ち寄る機会の無い、言うなれば裏路地である。そんな、意識して通った事があったすらかも分からない場所の光景など、余程の理由が無い限りは鮮明に記憶している方が不思議だろう。
 しかし、慶玖の言葉には自信があった。この場所に何か思い入れでもあるのか、それとも他に理由があるか。どれだけ考えても、答えには辿り着けない。遂には考える事も馬鹿らしくなって、兄の背中に言葉を投げた。
「ねえ。さっきの事なんだけど」
「んー? 何か言った、千歳ちゃん?」
 返って来たのは、間延びした声。千歳は時間帯も忘れて、思わず声を荒げた。
「言ったわよ! さっきのアレ、一体何だったの!?」
「こんな時間に大声出したら、流石に近所迷惑になっちゃうよ?」
「もう、茶化さないでよ! さっきからずっと気になってるんだから!!」
「別に、茶化してなんか無いよ。で、千歳ちゃんの言うさっきのアレって?」
 一向に答える気配の無い様子に、扱いには慣れている筈の千歳の我慢も限界に達した。
「桜の話よ! あの店が出来る前にあったっていう、桜の木の話!!」
「あぁ、その話ね。で、桜の話がどうかした?」
「あの場所、本当に桜なんてあったの? あたし、記憶に無いんだけど」
「千歳ちゃん、この道全然通らないでしょ。だったら分からなくても当然だと思うけど?」
 先刻まで考えていた事を、さらりと言われた。確かに、慶玖の言う事は間違っていない。それは分かる。千歳自身、それが妥当な判断である事を理解しているからだ。しかし、千歳が言いたいのはそれだけでは無い。
「じゃあ慶玖は桜があった事を覚えてるくらい、この道通ってるんだ? 通学路から大分外れてるけど?」
 千歳が知りたいのは、慶玖の中に在る絶対的な自身の根拠だ。それを追究しようと問い掛けたその顔に、意地の悪い笑みが浮かんでいた事を、当人は知る由も無い。
 返事には、若干の間があった。ように、思えた。
「……散歩がてら、時々通ってただけだよ。ある日見付けてから、ちょっと気に入って様子を見に行ってたから」
 尤もらしいその返答自体は、淀みの無い物だった。嘘も得意な兄のそれが真実であるかなど、観察力の乏しい千歳には判断出来ない。非常に残念な結果ではあるが。
 しかし完璧とも思える言葉の中に、更なる追究の余地がある事に気付いた事は、幸運と言うべきなのだろうか。
「ねえ、時々ってどのくらい?」
「時々は時々だよ。気が向いたらふらっと寄り道、ってくらいの気紛れな頻度」
「じゃあ、最後にこの道通ったのはいつ? 勿論、あの店が出来る前に」
「――――さあ、いつだったかな」
 ぽつりと零された呟きを最後に、沈黙が降りた。辺りも深い闇色に染まった今では、ふたりの足音と微かに聞こえる虫の鳴き声だけがその場を支配している。それすらも止んでしまえば、その場に漂うのは規則的に繰り返される小さな足音のみ。地面を擦る靴の音がひとつ響く度に空気が重くなっていく様で、千歳は急いで言葉を発した。
「木が切られた所とか、お店を作ってる所とか、そういうの見て無いの?」
「見て無いよ。仮に見ていたら、あんな事訊かない」
 答えは、思いの外素早く返って来た。その口調には、些か普段の軽い調子が欠けている様にも思えたが。
「それじゃあ、一体何を思ってあんな事訊いたの?」
「ねえ。千歳ちゃんは、あの人の言ってた『魔法のケーキ』って信じてる?」
「はぁ? いきなり何言って」
「いいから。信じてる? それとも冗談だと思ってる?」
 唐突に何を言い出すのかと訝しむと、不意に足を止めた慶玖が振り向いた。暗がりの中見えた、予想外の真面目な表情に千歳はたじろぐ。ずっと彼の背中に向けて話しかけていた為、その表情を垣間見る事は出来なかった。その為、口調から普段と然して変わらぬ様子を想像していた。だがそれは、自身の中で勝手に構築していた幻像に過ぎなかったのだ。その事実に戸惑いを覚えながらも、千歳は与えられた問いに答える。
「心の底から信じてるとは……正直、言えない。でも、信じたい気持ちはあるよ」
 素直な気持ちを、言葉に乗せる。それを聞き届けた慶玖が、ふと笑った。
「そっか。それなら、それで良いんじゃない?」
「…………は?」
 意味が分からない。唐突に話の内容を摩り替えておいて、そんな曖昧な言葉で締めようと言うのか。そもそも千歳の投げた問いに対して、全く答えになっていないではないか。
「どういう事よそれ! ちゃんと分かる様に説明してよね!!」
「さっき言った通り。それもこれも、案外、本当に魔法なのかもしれないよ?」
 現実主義の慶玖の口からそんなファンタジックな発言が出る事自体、何かがおかしい。しかし、それ以上は聞き出す事が出来なかった。本当に彼が魔法とやらを信じているのかは、疑わしかったが。
 千歳は深く溜息を吐いて、いつの間にか再び歩き出していた兄の背を追った。


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