第8話 初めてのアルバイト


 気持ちの落ち着かないまま一日を終えた、放課後。
 終業のチャイムが鳴ると同時に千歳は颯爽と身支度を整え、問答無用で慶玖の腕を掴んで教室を飛び出した。寄り道を提案すべく声を掛けようとした友人達も、その素早さに目を瞬かせて固まった程である。そうして彼らが理由を尋ねる暇も無く、兄妹は教室からあっという間に姿を消したのであった。
「……あのさぁ千歳ちゃん。僕の準備時間は?」
 されるがままに手を引かれている慶玖が、のんびりと問いを口にする。
「大した準備も無いでしょ。問題無し」
「僕の事なんて知るか、って事ね。ホント、夢中になると周りが見えなくなっちゃうんだから」
 溜息混じりの愚痴を零すと諦めたのか、するりと手を解く。僅かに背後を振り向いた千歳は、慶玖の意思に気付くとそのまま歩みを早めた。つまりは、自力で歩くから早く向かえという事なのだろう。何だかんだと言いながらも、此方の想いを汲んで対応してくれる辺りは優しいと思う。素直に認めるのは、少々不服ではあるが。
 心の奥底で密かに感謝の気持ちを持ちながら、千歳は目的地へ続く道を真っ直ぐに進んで行った。


 逸る気持ちの成せる業か、店に辿り着くまでそう時間は掛からなかった。
 開店二日目となった店の前には、未だ長い列が出来上がっている。心なしか、昨日よりも長蛇の列と化している様に思うのは気の所為だろうか。聞いた話では町中に開店の情報は伝わっている様なので、好奇心から人が押し寄せているのかも知れない。普通に考えて、この行列は単なる個人店としては有り得ない長さになっている。
 有名な職人の店というのならば、分かる。しかしこの店の店主は、そういった経歴は持っていないらしいのだ。ならば幾ら新規開店したからと言って、訪れる人数は此処まで多くは無いだろう。事前の宣伝効果があったとしても、だ。
 確かにこの店のケーキは美味しい。今まで食べたどの洋菓子よりも、遥かに。しかし味に関しては、実際に食べてみなければ判断の下し様が無い。だと言うのに開店初日から長い列を形成した理由は、別にあるのだろう。
 つまり人々が関心を寄せているのは、洋菓子と言うよりも。
(さくらさん、なんだろうなぁ……)
 思って、千歳は苦笑する。
 開店初日、校門前でも行われていたというビラ配り。それを目撃した友人も、さくらの容姿に目を惹かれたと語っていた。整った顔立ちもさる事ながら、美しい桜色に染まった髪が周囲を惹き付けて離さない。まるで人形がそのまま歩いているか、物語の世界から飛び出して来たかの様な、不思議な違和感を持っているのだ。現に千歳自身、初めて彼女の姿を見た時は衝撃のあまり、まともな会話が出来なかった。
 噂に聞く様なその姿を自身の目で確かめたくて、人々は洋菓子を口実に訪れているのかも知れない。
(最初はそうかも知れないけど、でも次からはきっと違う)
 確信的な思いを持って、千歳はひとり頷く。
 最初こそ興味本位での訪問かも知れない。けれど、販売されている菓子達を口にすれば印象が変わるだろう。店主の腕は確かなのだと、嫌が応にも知る筈だ。そうすれば、今度は本当の意味での客として、彼らは店に足を運んでくれる。そこまでの流れを、さくらが考えていたのかは分からないが。
(とにもかくにも、頑張らなきゃ!)
 自身を叱咤して、列を横目に店内へ足を踏み入れる。カウンターに居るさくらと、目が合った。
「いらっしゃい、千歳ちゃん。慶玖君。そこの通路に入ってすぐの部屋に、服は用意してあるわ」
「……あ、ハイ!」
 カウンター横には、ファンシーな暖簾で隠す様にして奥に続く通路がある。言われた通りに暖簾を潜ると、待ち構えた様にスィリーンが佇んでいた。思わず身構えた千歳達に対して、彼は表情ひとつ変えずに傍の扉を示してみせる。
「制服は用意してありますので、此方でお着替え下さい」
 淡々とした説明に宿る感情も、何処か温度を感じない。淡々と此方を眺める視線には、何処か厳しさが含まれている様な気がした。その理由こそ千歳には読み取る事など出来なかったが、少なくとも昨日紅茶を運んで来てくれた時とは、少々違った空気を纏っている様な気がする。今の彼はさながら、氷の様だ。
「……何か、ご質問でも?」
 不審感を孕んだ声が静かに発せられて、千歳は我に返った。
「いいえ、何でも無いですっ! す、すぐに、着替えますから!!」
 ぶんぶんと手を振って否定すると、千歳は慌てて扉のノブに手を掛けた。


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