第9話 封印された扉


 着替え用に、と提示された扉を開けた千歳は、その向こう側に広がる光景に目を瞬かせた。其処は確かに、更衣室の要素を存分に含んでいる。しかしどうやらそれだけでなく、休憩室も兼ねているらしい。
 中央には大きめのテーブルが置かれ、その上には丁寧に畳まれた二種類の制服が名前のプレートと共に乗せられていた。どちらもさくらの着ている制服を基盤として作られている様で、慶玖の物は色合いがピンクでは無くブルー系になっている。スィリーンと同じウェイター調の物とは違うのは、店頭で並んだ時のバランスを想定しているのだろうか。
 そして部屋の奥には、衣料店で見掛ける試着室にも似たボックスがふたつ。此処で着替えろというのだろう。幾ら兄妹と言えど、仕切りの無い部屋での着替えは激しく抵抗がある。しかし試着室が存在するのならば、大分ストレスは軽減される気がする。――――簡素な壁一枚を隔てただけだと思うと、若干の戸惑いはあるが。
「気持ちは分かるけど、とっとと着替えようよ千歳ちゃん」
 何事も対応が気楽な兄は、さっさと自分用の制服を手に取って試着室へ消えていった。千歳も慌てて制服を抱えると、空いた方の試着室に飛び込んだ。
 そうして素早く着替えを済ませた千歳が試着室を出ると、既に着替えを終えていた慶玖が気付いてひらりと手を振って来た。フリルの付いた真っ白なエプロンを来ている千歳とは違い、彼は濃紺のエプロンを腰から巻いた男性スタイルだ。制服と普段着以外の恰好を初めて見たからだろうか、妙に普段とは違った雰囲気に見える。
 それは自分も同じなのだと思うと急に羞恥心が湧きあがって来て、千歳は思わず俯いた。
「ねえ千歳ちゃん」
「な、なに!?」
 反射的に上擦った声に自分でも動揺したが、慶玖はそれに触れず、制服の裾やら袖やらを興味深そうに観察している。千歳の挙動になど気付いていない彼は、制服を眺めたままぽつりと疑問を落とした。
「サイズ、驚くほど僕達にぴったりだよね」
「……言われてみれば、確かに」
 指摘されて、初めて気付く。
 用意された制服は、的確なまでにそれぞれのサイズで作られていた。情報提供をした覚えは無いのだが、さくらには推測で衣装を設える才能でも持っているのだろうか。そもそもバイトの件は、昨日急遽決まった様なものなのだ。的確なサイズの衣装を準備するには、少々時間が足りない様な気がするのだが。
 矢張り、何処か謎のある洋菓子店である。
「でも今は、手伝う方が先かも。お客さん、今日もいっぱい来てるんだから!」
「ま、そうだよね。訊く事なら、営業終了後にでも出来る訳だし」
「そういうコト!」
 これ以上長く此処に籠っていたら、部屋の向こうからスィリーンの催促が飛んで来そうな気がする。
 僅かにそう思った千歳だったが、言葉に出すのは憚られたので、ぐっと堪えて飲み込んだ。その代わりに颯爽と扉を開け、廊下に出る。其処に待ち構えるが如く佇むスィリーンの姿を見付けて、千歳はその判断が正しかった事を確信した。下手したら、会話は筒抜けだったかも知れない。
「あ、あのっ、準備出来ましたっ」
 余計な事を考えてしまった所為か、完了を告げる声は奇妙に裏返った。背後で慶玖が忍び笑いを漏らしたが、スィリーンは眉ひとつ動かさない。一体何ならば彼の表情を動かす事が出来るのか、甚だ疑問だ。
「店内の構造等は後程詳しく説明致しますが、まずはお手伝いをお願い致します。指示はさくら様の仰る通りに。くれぐれも、さくら様のお手を煩わせる事など無いよう」
 言葉遣いはひどく丁寧だが、口調は淡々として冷気を纏っているかの様だ。
 生まれつつある苦手意識を強引に心の奥底へと追い遣り、千歳は素直に頷いた。
「も、勿論! 私が出来る限りの、最善を尽くします」
「同じく。ご迷惑を掛ける様な事は慎みますので、ご安心を」
 背後から飛んだ言葉に、スィリーンが僅かに表情を変えた。皮肉と捉えられたのだろうか。
(もっと真っ直ぐな言葉選びなさいよー!)
 千歳は内心で兄への暴言を吐いたが、口を開いたスィリーンは想像と全く違う言葉を紡いだ。
「それから、ひとつだけ注意を。この廊下の奥の扉だけは、絶対に開けぬようお願い致します」
「その扉、何かあるんですか?」
「企業秘密ですので、その質問にはお答えしかねます」
 ふと浮かんだ疑問は、一蹴された。これ以上の追求を拒む様に、スィリーンの眼光が鋭くなる。これ以上彼の機嫌を損ねる前に退散するべきだと、千歳は瞬時に判断した。
「そ、それじゃあたし達は手伝いに行って来ますっ!」
 高らかに宣言して、店頭へ向かう道を往く。軽い会釈だけで済ませた慶玖が、千歳を追った。
「どう思う? 千歳ちゃんは」
「どう思うって、何が」
「開けるなって言われた奥の扉の事だよ。何が眠ってるのか、気になるよね」
 物事に白黒つけないと気が済まない質の慶玖にとって、封印されたかの様な扉はすっかり興味の対象として刻まれてしまったらしい。何だか、とっても嫌な予感がする。恐らく、それは気の所為なんかでは無い。
「何が眠ってたって、あたし達には関係ない事だよ。ああ言ったけど一種のプライベートスペースって可能性もあるし、人の私生活暴いたって慶玖には得なんて無いでしょ」
 それらしい理由を挙げて、諦めさせようと画策した千歳だったが。
「でも、開けるなって言われると開けたくなるのが人情ってモンだよねえ」
 そんな呟きをさも愉しげに口にした兄に対し、千歳は今後起きるであろう一悶着に憂鬱な気持ちになるのだった。


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