第10話 労働とご褒美


 それからは、目まぐるしく時間が過ぎていった。
 次から次へと絶え間なく来訪する客達を相手に、事前の研修も無く対応する事は予想以上の精神力と体力を要するらしい。その事実を、いざ体験して千歳はしみじみと思い知った。今までバイトらしい事も経験が無い身で何とか大きなミスも無くこなせていたのは、ひとえに夢への情熱があったからなのかも知れない。
 対象が何であれ、「好き」であるという事は単純に強く、大きな意味を持つ。それはモチベーションであったり、技術力であったり、様々ではあるが、何かしらの強みを生むという事は共通している。
 大好きなケーキと共に過ごせる喜び。そして、それを仕事とする人を間近で見る事が出来る喜び。それだけでは技術に直結する事など無いけれど、それでも決して今後の糧にならないという訳では無いだろう。そう思うだけで、千歳は疲れさえも吹っ飛ばせる様な気がするし、頑張れる様な気がした。
 ショーケースの中に並ぶ色とりどりのケーキ達は、みるみるうちに姿を消していく。その都度さくらが奥に戻り、新たなケーキを補充して来る。その繰り返し。千歳と慶玖は主に客の注文を受けたり、ケーキの確保と箱詰めの手伝いをしていたが、さくらが店頭に不在となる間は会計も任されていた。やはり金銭の扱いは一番緊張したが、その辺りは主に慶玖が手際良く済ませてくれる。客の数からしても、慶玖がふたりでと申し出てくれたのは僥倖だったかも知れない。
 休む間もなく動き続け、窓の外がすっかり真っ暗になった頃。漸く最後の客が帰り、ショーケースの中身がすっかり空になった。一切の残りが無いその様子は、清々しくさえある。
「ふたりとも、お疲れ様。とても、助かったわ」
 最後の客が店を出るのを見送った後、さくらは笑顔で労ってくれた。千歳はぶんぶんと首を振る。
「あたし、テンパっちゃって。機転も利かなかったと思うし、寧ろお仕事の邪魔しちゃったんじゃないかって」
「そうだねえ。お釣り忘れたり、金額間違えたり。途中で僕が代わったのは正解だったね。あ、あとケーキ落としそうになったりとかもあったっけ。お客さんもハラハラして見守ってたよ」
 爽やかな笑顔でミスを羅列する兄を、千歳は全力で睨み付けた。言い訳をするつもりは無いが、幾ら事実でも言い方という物があるだろう。言い方という物が。しかし慶玖がダメージを負った様子は無かった。いつもの事であるが。
「でも、大きなトラブルが無く終えられたんだから充分だわ。本当に有り難う。ふたりが居てくれて、本当に助かったのよ」
 そう言って、さくらはふわりと微笑む。満開の花が咲いた様な、可憐な笑顔。それを向けられただけで、疲れも吹っ飛んでしまいそうな錯覚さえ覚える。それこそ、魔法の様に。
「良かったら、ケーキ食べていって? 疲れた時には甘い物、って言うでしょう?」
「え、あの、でもケーキは皆終わっちゃってますよね?」
 すっかり空になったショーケースを改めて眺めて、千歳は問う。さくらは悪戯っ子の様に片目を瞑った。
「販売用はね。ふたりに振る舞おうと思って、別に用意してあるの」
「ほ、本当ですか……!」
 錯覚でも何でも無く、千歳の疲れは吹っ飛んだ。疲れた時には甘い物。全くもってその通りだ。
 分かり易く目を輝かせ始めた千歳に、慶玖は呆れた様に呟く。
「一昨日から食べ過ぎじゃない? 流石に太るよ?」
「…………う」
 それは否定出来ない。が、此処で辞退してはわざわざ別に用意してくれていたさくらに失礼だろう。そんな都合の良い言い訳をして、千歳は自身に大丈夫と繰り返し心の中で言い聞かせた。
(確かに毎日の様にケーキ食べてるけど、でも、今日は特別。大丈夫、特別なんだから。明日からは少し、ほんの少しだけ、自重する。うん、絶対。きっと!)
 微妙な間を葛藤と取ったのか、さくらが申し訳なさそうに切り出す。
「勿論、無理にとは言わないわ。もし良かったら持って帰れる様に準備を――――」
「あ、いえ、大丈夫です! 今此処で頂きますっ!!」
 反射的、と言っても良かった。咄嗟に言葉を発していた事に、千歳自身もハッとする。あまりにも勢い良く発言した所為だろうか、さくらは驚いた様に目を瞬かせていたが、ふと微笑むと頷いた。
「分かったわ。それじゃあ、準備して来るわね。ふたりとも、その間に着替えていらっしゃいな」
「あ、そうですね。それじゃあさっきの部屋、またお借りします」
「ふふ、そんなに畏まらないで良いのよ。これからも、あの部屋はふたり用のスタッフルームになるんだから」
 言って、さくらは奥の部屋へと戻っていった。それを見送りながら、千歳は彼女の言葉を反芻する。さくらの言葉からしても、この店の一員として認められたと言って差し支えないのだろう。ただの一時的な手伝い要員では無く、正式にバイトとして迎え入れられたのだと。当たり前の様にさらりと零れた言葉だからこそ、嬉しさも倍増する。
「千歳ちゃん? 何ニヤニヤしてんのさ。早く着替えないと、さくらさん戻って来ちゃうよ」
「だっ、誰がニヤニヤしてるって言うのよ!」
「自覚が無い訳ないでしょ、それだけ感情が漏れ出てるんだから。ほら、早く行くよ」
 手招きしながら、慶玖は先刻の部屋へと歩き始めた。言われた通り、頬が緩んでいるのは自覚している。 まだ喜びはじわりと胸を支配していたが、いつまでもその感情に酔っている訳にもいかないだろう。千歳は両頬をぱちんと叩いて活を入れると、兄の後を追い掛けた。


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