第11話 扉の向こう側


 浮き足立った気持ちのままスタッフルームに戻った千歳は、手早く着替えを済ませた。試着室のカーテンを開けると、既に着替え終わっていたらしい慶玖の後ろ姿が目に入る。僅かに開けた扉から顔だけを外に出し、周囲の様子を窺っている様なその様子は背後から見ると滑稽でしか無かったが、千歳からしてみれば嫌な予感そのものだ。
「……何やってんの、こそこそと」
 声を掛けると、待ってましたとばかりに振り向いた視線と目が合った。好奇心に輝く瞳に、千歳の眉根が寄る。これはよからぬ事を考えている顔だ。そう、直感する。
「ねえ。気にならない? 奥の扉の向こう側」
 数時間前にも聞いた言葉が、甦る。千歳は頭痛を覚えた。すっかり忘れていたと思っていたが、この兄は全然忘れてなどいなかった。寧ろ、突撃するタイミングを常に窺っていたのだろう。
「駄目だって言われたでしょ。これで怒られてバイトの件が白紙になったらあたしが困るの!」
「困るのは千歳ちゃんだけじゃない。僕にはあまり関係無いし」
「そういう問題じゃなーい!」
 ああ言えばこうい言う、とはこの事か。自身の欲求を満たそうとする時、それを阻む者には容赦が無くなる。普段は穏やかな傾向にある慶玖に時折現れる薄情さは、こういう時に遺憾なく発揮されるのだ。そしてこうなると、慶玖は人の話を聞かない。千歳の制止も警告も、意味の無い物になってしまう。
「別にプライベートスペースだったらそれで納得するし、仮にとんでもない秘密があったとしても別に公言したりするつもりも無いよ。僕はただ、向こう側がどうなってるのか知りたいだけだからね。確認した時点で僕自身が気持ちを消化させてそれで全部終わり。千歳ちゃんは戻ってて良いよ。巻き込もうなんて思って無いからさ」
 言って、慶玖は再び廊下へと顔を出した。誰も居ない事を確認すると、そのまま部屋を出る。その一連の動作を、千歳は黙って見ている事しか出来なかった。止めたいが、止められない。もどかしい。
 戻っていて構わないと、慶玖は言った。それは彼なりの優しさなのだろう。怒られるのならば自分だけで良い。そう、本気で思っている。だったら千歳が着替え終わるのを待たずに独断で突撃しても良い物だが、慶玖はそれをしない。そう生きられないのが彼なのだ。だったらそもそも余計な事をしなければ良いのに、とは思うが。
 自分でも無意識のうちに、千歳は兄の服の裾を掴んでいた。慶玖が、きょとんとした顔で瞬きを繰り返す。
「……千歳ちゃん?」
「いい。あたしも一緒に行く」
 ぽつりと、言葉を告げる。慶玖だけを切り捨てて何も知らない顔は出来ない。どう足掻いても止められないのならば、一緒に罰を受ける。それが千歳の下した結論だった。此処で見送っていざ何かあった時、後悔する事だけはしたくなかった。寧ろ、行って後悔する可能性も存分にあるのだが――――それに本音を言うのならば千歳自身、その先の光景が気になるというのもあった。これでこの店と縁が切れてしまっても仕方が無い。千歳は覚悟を決めた。
(何だかんだで兄馬鹿だよなあ……あたし)
 双子というだけで比較されて育って来た。男女という事もあって、同性双子ほど顕著では無かったかも知れないが、自身より出来の良い兄を持った千歳の劣等感は強くあった。
 そんな千歳が見付けた夢が、パティシエールだ。そこに少しだけ、ほんの少しだけ近付いていた今の環境が、この無謀な行動を起因としてまた遠退くかも知れない。その不安が、千歳自身無かった訳では無い。無茶な行動をする兄を、恨めしく思う気持ちが無い訳では無い。けれど、手に入れた希望を掴むよりも兄を心配する気持ちの方が、ほんの少しだけ上回ってしまった。洋菓子店は、他にもある。だが、兄は慶玖以外に居ない。そう思える程度には、兄の事を好いている。それだけの事だ。適当に理由を付けて気持ちを強引に納得させて、千歳は慶玖に続いた。
 廊下の奥。そこに鎮座する扉が、異様な重圧を与えて来る様な気がする。千歳は震える手に力を込めて、掴んだ裾を握り締めた。それに気付いたらしい慶玖は一度だけ振り返ったが、何も言わずに視線を戻す。
 禁を破ろうという背徳感からか、ふたりとも無意識に足音を抑えていた。傍から見れば、お化け屋敷の中を進んでいく様にも似ている。精神感覚としては、同じかも知れなかった。
 扉の前に辿り着くと、慶玖は迷わずノブに手を掛ける。その躊躇いの無さが、恐ろしい。
「開けるよ。千歳ちゃん、覚悟は良い?」
 自身に覚悟があるのかも分からないまま、千歳は小さく頷いた。それを確かめて、慶玖はノブを回す。
 そうして開かれた扉の向こうには――――予想もしていなかった光景が広がっていた。
「な、何これ……」
 呆然と、千歳は呟く。
 其処は、何の変哲も無いキッチンであった。しかし有り得ない事が起きていた。宙に浮いたボウルの中身を、自動でかき混ぜる泡立て器。ふわりと浮きながらケーキをデコレーションしていく絞り袋。見えない誰かが使っているとしか思えない包丁で切られていくフルーツ。自由に動く食器類の数々は、それこそお化け屋敷の光景と大差無いだろう。
 困惑のまま立ち尽くしていると、背後から困惑する様な声が響いた。
「千歳ちゃん? 慶玖くん?」
 名を呼ばれた瞬間、背筋が凍る思いがした。 恐る恐る振り返れば、そこに居たのは想像通り、さくらだった。
「あ、あの……ええと、これは……その……」
 どう説明したものかとあわあわする千歳であったが、さくらはこの現状に対してそこまで張り詰めた物を感じてはいない事に気付く。断固拒否の姿勢を貫いていたスィリーンとの様子の差が、際立つ程だ。
「あらあら……見付かってしまったのね」
 困った様に笑って、さくらはのほほんとした雰囲気で言うのであった。


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