第10話 宴のまえ


 四人目の弟子を迎える事となった夜。ロザリーの歓迎会と称した小さな晩餐の席が設けられる事となっていた。薬屋「アルトバルド」の恒例行事とも言えるこの祝いの席は、弟子入りの晩には必ず行われている物だ。過去に三回しか例の無い物ではあるが。
 主役となるべき新弟子は、開始の刻まで会場に近付いてはならないという。ロザリーは二階の空室に案内され、開始時刻までは階下へ向かわぬよう念を押されていた。
 告げられた当初は僅かに不信感も抱いたが、準備に戻る姉弟子の楽しそうな顔を見た瞬間にそれは消え去った。彼女達は歓迎会の準備さえも、心から楽しんでいる様に見えたのだ。それは、ロザリーを受け入れてくれている事と同義だ。快く思わない者の歓迎会を、楽しむ者など居まい。
「素敵な所、なんですのね。此処は……本当に」
 静かに閉ざされた扉の向こうを思い、ぽつりと本音が零れた。
 温かくて、優しい感情。愛情に満ちた、家庭的な空気。憧れていた、純粋な幸せの形が此処に在る。しかし、夢にまで見た喜びが訪れている事実を、まだ実感出来ずに居た。
 ロザリーは辺りを見回す。決して広いとは言えないが、適度に整頓されて落ち着いた部屋。今後は、ロザリーの自室となる場所。温かみのある調度品は最低限の物が揃えられており、何も持たずに訪れた身でも充分に生活は可能である。
「……せめて、服くらいは持って来るべきでした」
 壁に掛かった小さな鏡に映る自身の姿を眺め、ロザリーは僅かに眉を顰めた。
 出来る事なら取りに戻りたい所だが、生憎と帰る事は出来ない。それが可能ならば、此処までは来ていないのだから。
 後で何とかしなければと呟いて、ロザリーは部屋の隅に置かれたソファに身を沈めた。優しく受け止める柔軟性と適度な弾力感を併せ持つそれは、なかなか高級な代物の様だ。手触りを確かめる様に、ソファに掌を押し付ける。既視感を覚える感触が無性に苛立たしくて、ロザリーは何度も繰り返して手を埋めた。押す力は次第に強まり、気付いた時にはソファに拳を叩き付けていた。我に帰り、漸く手を止める。
「…………一体何を、やってるのかしら」
 唇を噛んで、膝を抱える。願いは今、叶えられた。それなのに、どうにも心が晴れない。重く広がる靄に、心が侵食されていく様な感覚。
 どうするべきなのか。どうすればいいのか、分からない。
 抱えた膝に顔を埋め、ロザリーは湧き上がって来る困惑の渦に耐えた。


「どうかしたの? 気分でも、悪い?」
 不意に降って来た声に、ハッとする。知らぬうちに、眠ってしまっていたらしい。慌てる様に顔を上げると、桃色の瞳が不安の色を滲ませて此方を窺っていた。純真無垢を絵に描いた様な、小柄な少女――――確か、名前はスゥイティア・ローレルと言っただろうか。
「あの、もし気分が悪かったら遠慮なく言ってね? 残念だけど、歓迎会は延期出来るし」
「いいえ、大丈夫ですのでお気になさらず。少し、眠ってしまっただけですから」
 これ以上彼女に心配は掛けられない。ロザリーは彼女の不安を取り除けるよう、努めて柔らかく言葉を返した。その効果だろうか、彼女は安心した様に微笑む。
「そっかぁ、良かった。でも無理はしないでね?」
「ええ、有事の際は必ずお伝え致しますから、ご安心下さいませ」
「……うん」
 頷きを返したスゥイティアが眉根を寄せた事に気付き、ロザリーは目を瞬かせる。
 何か、彼女を困らせる様な事を言ったのだろうか。そう思って先刻の遣り取りを反芻してみたが、心当たりは何も浮かばなかった。
「あの、どうかしまして?」
「うん。あのね、なんかね、うーんと……どうしてそんな難しい喋り方するのかなぁって」
「え――――」
 予想外の言葉だった。思わずロザリーは動きを止め、呆然と姉弟子の顔を眺める。
 丁寧に、かつ優雅に。産まれた時からそういう物だと教えられて、それが当然の様に生きて来た。それ故に、それを「難しい」と言われる事など、考えた事も無かったのだ。確かに、一般市民から見れば堅苦しい言い回しである事は理解していたつもりだった。しかしそれを指摘される事など、今まで経験した事が無い。それは、初めての出来事だった。
「此処ではロザリーちゃんも私も師匠の弟子で、みんな仲間だから。だから、何て言うか……その、わたしも良く分からないけど、えっと」
 必死に思いを伝えようとするスゥイティアの姿に、ロザリーの頬が緩む。彼女の言葉はしどろもどろで、文章らしい文章にはなっていなかったけれど。それでも、彼女の言いたい事は充分に伝わって来た。そして、彼女の澄み切った美しい心も。
「そうですわね。わたくしも今日からは貴方がたの仲間、ですもの。堅苦しい事は出来る限り、控えられるよう努力しますわ。勿論、礼節は弁えた上で、ですけれど」
 心が洗われた様な気がした。心からの笑顔と共に、手を差し出す。
「改めまして、これから宜しくお願いします」
「うん! わたしも、宜しく!!」
 そうして強く握手を交わすと、スゥイティアは嬉しそうにロザリーの両手を取った。
「歓迎会の準備が出来たの。みんな下で待ってるから、行こう?」
「ええ。楽しみですわ」
 導かれるままにソファから身を剥がし、ロザリーは皆の待つ広間へと向かうのだった。


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